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こころの闇(第2部):
         演技的な自己と、超越的な自己(インナー・ファザー)
         渡邊泰子を素材に、こころの構造を解く

こんにちは、吉田繁治です。前号(Vol.45)に引き続き、お届けします。(急いで送ってくれとおっしゃる方がおられますので)

送った30分後から、どっさり感想をいただいています。読むとそれぞれのかたの「根底での悩み、迷い、怒り、哀しみ、無力感、悲哀、欲望」が伝わってきます。やはり渡邊泰子が「事件」という形式で発したメッセージは、すごかったんだと思います。佐野眞一も言うように彼女はわれわれや社会をくっきりと映してしまう。

今、私は「渡邊泰子」にとりこまれていますから、こころしてなるべく軽い調子で書きます。そうでないと書いていて、なんだか苦しい。今しか書けないと思えることが多い。それに、とても大切なことに思える。

文章記述ってそうした瞬間が稀にある。一種のオート・エクリチュール(自動筆記)でしょう。あ、少し違います。まだ書く自分と、書く自分を見る自分がいる。表現ですからそうなるでしょうね。2部ではおわらない感じです。anyway、3部までを目標に。


Vol.46 こころの闇(2)
1.「演技的な自己」と、「アイデンティティ」
2.「オルガスムス」の仕組み
3. 至る所にある幸福と、到達できない幸福
4. 意識というものの謎
5. 5時からの奇矯(ききょう)な行動
6.「幸福という幻想」に向かって計画化された「家庭」(続く)


演技的な自己と、「アイデンティティ」

前号で、「演技的自己」にすこし触れました。臨床医の斎藤学氏はこれを<コンパートメント・メンタリティ>と呼んでいます。

TPOという操作概念

演技的自己とは、特に現代人は学校、職場、家庭、仲間、友人、行事、場所などのTPO(Time:Place:Occasion:時;場所;機会)で、別の人格や行動様式を取り替えて演じているという見方です。TPOといえば、小売の商品構成論、マーチャンダイジング論を学んだ方には、なじみが深いはずです。服装やファッション、食事が典型的にそうですね。

【特に意識しない普通の行動】
TPOを意識して外形の様式(Style)や、言動を変えるのは、普通の行動です。ふだんは、借りてきた猫のようなひとが、宴会などで、ある時刻から突然立ちあがり、奇矯に叫んで、品がいいとはいえないパフォーマンス(演技⇒他からの評価が加わると、成果と言ってもいい)を見せるのも同じです。見ているほうは、心の奥をのぞいた感じで、なんだか、哀しいけれど。
(実は、個人業績評価も、これと全く同じ構造)

みんなに「受ける」ということの構造

パフォーマンス(演技)がその機会の雰囲気(環境と制約条件)にぴたりと調和(コーディネートあるいはハーモニー)した時は「受ける=拍手=成果」、そうでない時は「白ける=静寂=無成果」でしょう。ゴルフやテニスで、スイートスポットをはずした感じですね。

必死のパフォーマンス(演技・行動・仕事)がパフォーマンス(成果)にならない。

【プロフェッショナル】
仕事でのプロフェッショナルは、お金(対価)と、制約条件(経営資源:人、モノ、カネ、情報)のなかでのパフォーマンス(成果)を、
あらかじめコミットメント(契約)できて、
そのパフォーマンスを、契約(約束)通り提供できる技術を練磨した人でしょう。

プロと評価される芸人(専門家またはサラリーマン)は、料金(対価)を受けとって、評価される(つまり「受ける」)パフォーマンスを約束(コミットメント)しそれを果たす(提供する)ひとでしょう。

プロはお金をもらわないと、パフォーマンスをしない。ここで渡邊泰子の「売春の性交」にちかくなる。彼女は厳密にお金を取った。

【アマチュア】
一方アマチュアは、パフォーマンスは自分の趣味や愛好や好み、パフォーマンスの成果(みんなに「受ける」こと)を約束(コミットメント)しない人でしょうね。なりゆきにまかせる人です。

ここで「恋愛の性交」にちかくなる。

(蛇足・・・)ああそう言えば、このマガジンは無料(実は無料ではなく、だれかがコスト負担していますが)ですから私はアマチュアかぁ。じゃ売春・売文じゃなく、恋愛・リレーションですね。(笑)

【トラウマの恐怖と幸福感】
パフォーマンス(演技されたもの)が受けない時は当人(演技する自分)は、とても深く傷つきます。トラウマや、自殺にもつながる。

【マイナスの評価】
積極的になるときは、評価してくれない相手への「憎しみ」になる。憎しみの時は、相手との抗争になるからまだ救いがある。自分の存在そのものは相手は認めている。つまらないと言っているだけです。

【無関心のとき】
もし自分のパフォーマンスが、相手にとって評価される以前の「無関心」の状態のときは大変です。自分の存在が否定されたことになるからです。この無関心にされる状態が続くと2つの対処が生じる。

【孤立】
ひとつは、相手の無関心に対抗して、自分の無関心を装うのです。これはあくまで無関心の演技ですね。だから苦しいのです。外見ではとても自尊心がつよくて、近寄れない雰囲気に見える。しかし、超絶的な孤独です。寂しさに耐えている状態です。仲間はずれにされた状態です。本当は心底、仲間に入れて欲しいんです。でもそれを表現できない。言えないのです。負けたことになるからです。悔しいのです。最後は、能面のような無表情と、無感情になる。しかし、これはまだ、強さが残っている。自分の強さを、必死にかき集めて、自己を支えている状態ですね。でも、そこから脱出しようとしないのです。閉じ込められているのです。

ここで自己を支えられなくなったとき、自殺という最期の表現手段をとることもある。ここも、段階があるようですが。

【負のパフォーマンス】
もうひとつは、相手の無関心に対して、世間の誰もがダメに思うに決まっている負のパフォーマンスをして自分の存在を認めさせる方法です。嗜癖、奇矯な行動、マスコミに向けた殺人や事件、売春、依存です。さらには相手へのへつらい、おべっか、お金を渡すこと、奴隷的な行動です。これは相手、周囲、仲間、組織、家族からの無関心に対して、自分を認めさせるための行動です。でもその表現方法が間違っているんです。そして当人もそれがわかっている。

自分の近い相手に対する意図的な無関心、または無意識の無関心って罪です。特に他人志向、他人の評価で生きることが多い現代人にとって、世間から、周囲から、組織から、家族から、女性は男から無関心のポジションにおかれることは大変な事態です。

【パフォーマンスが受けたとき】
一方で「受けたとき」は、これはもう、演技する自分は、得意の絶頂になる。演技された自分(客体)と、演技する自分(主体)が一体になれる感じなんです。合体ですね。軽いところではブラントの服を着るのも演技と同じです。美容院も。
(宴会の観察も、会社での個人業績評価と同じ構造、人間社会、人間の本質、文化、行動様式が透けて見えて、実に、おもしろいんですよ)

【しかし、場と乖離(かいり)する意識】
今日の宴会の場や、今日の性交には、本当の幸福なんかあるわけがない、と感じますか? 性交は、単に性欲だってね。

もっともっと重要な場面で本当の幸福感はあるはずだというのは、私は、幻想ではないか、と思っています。

次は、この合体の意味を解くためにオルガスムス(そう、性交の時のオルガスムス(絶頂)と同じ)の構造を解きます。


オルガスムスの仕組み

「受けた感じ」が幸福感(至福、あるいは、オルガスムス)でしょうね。その幸福感を他者が見ると周囲の人(見る人)も幸福になる。周囲の人とも一体になった感覚が得られるんです。だから拍手してたたえる。

性の交わりとは?

性の交わりで得られるオルガスムスは、肉体(モノ)としての自分の快感(感覚=即自)が、意識(精神=対自)としての自分を侵食して、一体になった時の感覚でしょうね。

しかしこの快感はオナニー(自励)でも得られる射精や、おんなの絶頂の感覚と同じです。これは自己(見る自分=対自)の崩壊、つまり見られる自分(即自=感覚=モノ)との一体感とも言えます。自己分裂(意識と肉体)がなくなった瞬間でしょう。

【性行為とタブーの高揚の構造】
神はこれに対して、平等に、快感という感覚をあたえたんでしょう。
性行為は、タブー(道徳や社会規範)を破って人間相互がお互いで自己崩壊の瞬間を求めるとも言える、聖なる行為です。

タブーの社会規範がつよければ強いほど、性交したときの快楽は強くなります。夫婦とされるひとたちの性行為がある時、つまらなくなるのはタブーがないからでしょうね。ましてや米国での夫婦のように、性交は義務となると、忌避が生じやすくなる。日常になってはいけないのが性行為でしょう。だから、人工的にいろんな仕掛けや工夫をするひと達がいる。 やっている本人は本当は嘘だって分かってやってるんです。

最近はタブーが薄れてきたので、性の交わりの強烈さ、至福感も、レベルが低下してきたんじゃないでしょうか。絶対に結婚が許されなかったロミオとジュリエットは性愛の原型です。

渡邊泰子は、最初は紳士風の人を相手に最初3万円くらいで売春した。その時は、まだタブーの意識が強かったのでしょうね。はじめて7年目の最期は、3千円になり、相手は労務者風という意味は、インテリの自分、上品な自分に必死にタブーを与えて、バランスをとったのでしょうね。壮絶な行為です。

売春は商品の売買とは、やはり違う、性行為です。

他者との一体感=お互いの自己の崩壊

相手がいて自分の感覚だけでなく、相手の肉体の快感と一体になったと思えるとき、触れている相手の肌や襞、髪、手、脚、そして性器が、自分のものと一体になったような幻想(物理では一体ではない、接触)が得られると、今度は、別の肉体である他者との一体感が得られる。

これは、普段は分かたれた異性との、相互侵入による「自己崩壊」とも言えます。この自己崩壊が「生殖」という物理になって、確率的につぎの「生命」を準備するのでしょうか。相手とのオルガスムスの高さが、強く、同じ瞬間の時、表現を超える「至福感」が確かにありますね。

終るオルガスムスと、続く「性愛」

オルガスムスでは、自分と相手の双方の自己が壊れて、一体になったような感覚が、とても短い瞬間ですが得られる。瞬間が終れば、元に戻るけれど、「相互に、お互いを認め合った」という情緒的な感覚は、ずっと記憶に残りますね。

これが「性愛」というものにつながるものかもしれません。ただしこの「愛」は、もう手垢にまみれ過ぎてますね。精神分析学的に、「深い相互承認」といったほうがクールです。

しかし、主体と客体との逆転:性行為の謎

性交のとき、物理的には「おとこ」は挿入(侵入)する側で、「おんな」は挿入される側のような感じもします。(ここは、そうはっきり言えるところじゃないと思いますが)

「おとこ」が主体で「おんな」は客体という「支配―被支配」の感じ。果たしてそうか。
ここに、性行為の謎がある。見つめ合う二人も同じです。とちらがどちらを見ていて、しかし、見られているのか?

なぜ相互侵入か? 皮膚感覚の違いがあるのでしょうか。重要なところです。

イマジネーションの力を借ります。
「おとこ」が挿入しているときは、「おんな」の中に入っている感覚があることは間違いない。「支配している感覚」は確かにある。

「おんな」はどうか?「ペニス」を挿入されているという感覚があるには違いない。しかしここに「おとこ」が分からない感覚があるはずです(イマジネーション)

「ペニス」が「おんな」の自分のなかで、自分と一体になった感覚でしょうか。挿入されているけれど、実は相手を「食べた」感じかなぁ。
そうなるとここでメビウスの輪のような「逆転」が起る。

つまり支配していると思っている相手の「おとこ」を、支配されていると思われる「おんな」が、自分の性器に包まれた「ペニス」を通じて逆支配する。

「抱かれているとされる客体のおんな」にとって、実は「抱いているおとこの肉体とペニス」は、自分のものであると感じることになる。
その時、「おんな」の意識はモノとしての相手と自分を見ている。

これが、食べる、つまり「自己以外の外界の異物を自分に同化」させるという感覚でしょうか。

そうなると、性交は「おとこが支配しているようで、実際はおんながペニスを自分と同化し、取り入れる行為」だということになる。

ああ、これで分かる。なぜ渡邊泰子が売春という性交を続けたか、彼女は「おとこ」を支配したかったのだろうってね。売春って最初は相手に商品化した性器や肉体を露呈し、結局は相手を支配し、自分の肉体に同化するペニスを備えることかもしれません。

その支配したい「おとこ」とは誰のことだったのか?
もう分かってますか?

(ここでは「おとこ・おんな=性的存在」、「男性・女性=社会的存在」、「人間=動物分類の類的存在」の意味で、便宜上わけています。でもman=男性=人間って、女性を排除してますね。だって、woman=女性≠人間、でしょう。womanは人間とは訳さない。アングロサクソン文化です。その意味で日本語のほうが、女性を人間と見ている)

つぎは、ほぼみんながもとめる「幸福」です。これは一体どんなもの?
ここで、やっと「渡邊泰子」に至れるはずです。

至る所にある幸福と、到達できない幸福

幸福って、どこか遠くにあるのではなく、今日の宴会、職場、通勤電車、英会話教室、美容院、アスレチッククラブ、エステ、デート、旅にもあるんです。当然、今日の性交にもある。人間はいつも全体です。「宴会の自分」だけで行くのではない。
全部の過去と末来をふくんだ自分を、すべて備えて、遇(あ)いに行く。

超越的な自己という理想化

幸福が、今、ここではなく遠くにあると感じるのは、今の環境と自分がニセモノであると思うからでしょう。そうすると、どこかにあるホンモノの幸福を、ホンモノであるとなぜ思うのか、ここが問題です。

これが自己の分裂です。いまここにいる全体としての自分以外に、内的なところで、何か別のものが、憑依(ひょうい=とりついた)状態ですね。

超越的な自己(または自我)

哲学でいう「超越的自己」といっても、精神分析学の「インナー・マザー(うちなる母)」、「インナー・ファザー(うちなる父)」、または、「多重人格」と言っても同じことです。

「理想化された自分(ホンモノ)=対自:意識」が、「いまここにいるダメなニセもの現実の自分=即自=モノ」を、見つめている感覚です。

【多重人格】
多重人格はいわば演技的なパフォーマンスが極度に完成した状態で、その時は、意識の分裂(対自と即自)が入りこむ余地が狭く、これを「病」ともいいますが、それでも、演技された自分(即自)を見つめている、あるいは叱ってる自分(対自=超越的自己)はいるんです。

本人はそれを意識している。完全に乗り移ってはいないようです。

多重人格での「超越的な自己」も自分の現在を厳しく責める「インナーマザー」も「インナーファザー」も、全部同じ概念です。もちろん、完成の程度の差はある。

われわれだって理想化された自分をもっている。

【インナーファザーという超越的な自我】
「渡邊泰子」という現象では、おそらく東電の役員候補といわれ52歳でガンで死んだ父が、「インナー・ファザー」としての超越的な、「理想化された内部の自己」になっていたと直感します。もちろん証拠はありません。推論によるしかない。本人だって、意識していたかどうかわからない。

【乗り越えること】
父がもし生きていれば、毎日、「だらしないところも見せるオヤジクサイい父」が目に入りますから、理想化は止まる。

そこで、現実の父を「乗り越え」て、父以外の、同世代の男との付き合い(相互侵入)を許容できるように「成長」するのでしょう。父は母のものだからです。普通は、こうした成長段階をたどるでしょうね。

【大切な人の死ということ】
ところが「父」はもういない。最愛の人が死んだ時の感覚って分かりますか? 私は、数年前父が死んだ時、その瞬間があった。最愛といえるかどうか分からないけれど、とても大切なひとだった。死んだ時、いや、生きていると思ったのです。どこに? 私の記憶に生きている。


いままでは、とおくにすんでいて、たまにしかあえなかったけれど、これから、いつでも、あえるよね、っておもったんです。ちちと、たいわしながら。これで、やっと、いつでも、あえるようになったじゃない、ってつぶやいた。いきているときは、なかなか、あえなかった。ごめんねって。わたしに、あうために、しんでくれたんだね、とてもくるしかったでしょうって・・・


普通は、死の顔を見たくない。でもね、ちっともそう思えないんです。いつまでもいつまでも見て、対話していたいって思った。この顔がなくなるのはいやだと思った。そして父は私の記憶のなかに住んだのです。私の場合は、理想化とまではいかなかったけれど、その声は、今でも、はっきりと聞えます。

渡邊泰子は、父の死のとき20歳、回復不能なくらい号泣している。泰子のこころは、おそらく父の死を認めなかった。20歳の女性にとって、最も敬愛する父の死は苛酷です。

【記憶のなか】
いつも想い浮かぶのは、私が中学1年生の頃、休暇(船乗りでしたから)の時、せがんで一緒に近くの川に行って、土手を散歩したときのことです。なぜこの記憶が鮮明なのかわかりません。でも何か父とつながっているという感覚があった。

こんな記憶が、どっさりあったらたいへんでしょうね。憑依されます。

ペットでも、まったく同じです。セキセイインコ(名前は<キベー>:黄色だったから)がとても長生きして、沢山のタマゴを産んで、死んだ時、哀切は人の死に比べればとても小さいけれど、そうかわるものじゃなかった。今も、ギーギーいう鳴声が聞え、喜んだとき籠の針金をつかんでぐるっと1回転するかわいい所作が見えます。

みんな、こんな記憶を抱えきれないくらいかかえて、生きている。

【理想化された父】
渡邊泰子は父の記憶が、私なんかよりもっともっと鮮烈で、たくさんあったのでしょうね。そして理想化されていった。当時20歳の渡邊泰子が自分で作り上げたはずの、理想化された父が現在のダメな渡邊泰子を、常に、叱責している状態です。

【逃げ水】
そうなると、幸福は、いま、ここの現実にはないことになる。ダメな自分が幸福と感じても、ニセモノの幸福だからです。幸福へのハードルを設定するのは、理想化された父ですから、永遠に近づくことはできない。理想は現実ではないから、理想です。理想の状態が現実になったら、もうそれは理想ではない。つまり、いつも現実を超えるんです。超越的な自我ですね。

こうした「超越的自我」が自分の中に住みこんでしまうと、大変です。
物凄く、忙しくなるし、いつも理想への飢餓感がある。

2つの選択肢

ここで取る態度は2つでしょうね。ひとつは、理想をあきらめ、「反転」して「自分がダメである証拠」を、山のように示そうとする。これが、「依存(症)」でしょう。依存の対象はなんでもいい。世間がダメだとしていることに耽溺(たんでき)する。精神分析では嗜癖(しへき)です。

渡邊泰子では、拒食、奇矯(ききょう)な風変わりな行動、立小便、電車での食い散らかし、コンビニでのおでんの買物、おでんのスープをずるずる啜(すす)ること、ラブホテルのベッドでの小便・脱糞、下品なお化粧、労務者風の男との性交だったのでしょうね。

いずれも自分を傷つける行為です。手首を切る習慣、薬物依存、軽いところではタバコ依存も同じでしょう。ダメな人間であることの、必死の、止むに止まれぬ確認の行為。自分が、存在した、存在するという魂の底からの、とても哀切な表現行為です。

子供がダダをこねるような「甘えた行為」に見えます。しかし、こうした嗜癖は「自分への厳しさ」です。甘えは気まぐれです。しかし嗜癖は徹底です、意志の力です。つまりいつもダメなことを選び、しかも周囲にそれを見せるという選択です。この見せるということが重要なのです。

超越的自我が自分のなかに住みこんだ時の二つ目の態度は、努力する習慣、つまり努力する才、いいかえれば天才でしょうね。

猛烈な勢いで絵を描くピカソです。決して、満足や充足ができないのです。世間が傑作といおうが10億円払おうが、自分では満足できない、もっとっと高いところに、ピカソ自身の内部の、超越的な自我が作ったハードルがあるのです。仕事依存も同じです。私の場合は書物依存、または原稿を書くことへの依存かもしれません。溢れてくるんです。あなたはなに依存ですか?



意識というものの謎

【TPOでのスタイルコーディネート】
現代は、TPOのそれぞれで、1セット(ある場面でのコーディネートスタイル)になった「演技的な自己」(または、コンパートメントメンタリティ」)を、器用に使い分けるひとが増えていているという見方は、確かに適切でしょうね。みんながTVタレントになった。

アイデンティティの問題

しかし、それぞれの場面で、場面と調和するように努める演技的な自己と、いわゆる、エリクソンが言った自己同一性(アイデンティティ)はどんな関係にあるのか?

【即自と対自】
多色の演技(=見られる自分:実存主義の未熟な用語では即自=en-soi)をしているとき、それを見ている自分(=対自:Pour-soi)は、自分の目であると同時に、他人や世間の目で自分を見ている。

しかも、世間や他人の目(世間の価値観)だけで見ているのではない。そこを超えた「超越」の目がある。

この「同時に」のところが深い謎なのです。追求すれば「時間論」という難しい、理解不能なところに行ってしまう。

【鏡に映った自分を見る自分】
鏡に映った姿は、見られるモノ(即自=見られる客体)のような感じですね。映った姿を見ている自分が、対自(自分=見る意識)であるとイメージしたらいいでしょうか。こうした見方は、西欧ではギリシア時代の昔から、あります。

そうかもしれないな、と思えるけれど、いまだに解決(Solution)がついていない。解決することが不可能とも、証明されていない。人類は、根ではずっと、数千年もこの問題を考えつづけてきたといってもいいでしょうね。<自己とはなにか、つまり意識とはなにか>です。
脳の物理的な構造がわかれば解決する問題とは、次元がちがう。

あたかも解決したかのように、仮説としてこの「対自・即自」の、自己分裂の概念を使っているのが、精神分析学や精神医学でしょうか。

【演技された自分と演技する自分】
演技する自己といったときは、演技されたもの(見られる自己)と演技する自己(その演技をみる自己)がある。どちらが自分か? どちらでもない、というのが「学」の結果ですから、学も、日常の疑問に答えてはいない。

学は、考える道具(定義されたことばと、まとまった概念)を与えてくれるだけです。学の本質はそこなのです。ツールは与える、その後は考えろ、これが「学」。安直な答えはない。勉強すればするほど、わからないことが増える。そうして稀に分かったといえることが見つかる。これは、強烈な喜びですね。懐疑から信念になるのです。(⇒リーダシップ)

【自己嫌悪】
演技された自己は、演技する自己である対自によって作ることができる。しかし、なにか嘘っぽい、自分で自分をイヤだなと感じることがある。「自己嫌悪」といわれるのものです。このときも、嫌悪される客体としての自分と、嫌悪する主体(意識)として自分がある。

【自己愛】
一方では、それが気に入ることがある。それが自己愛(ナルシシズム)と名づけられているものでしょう。現代人に多い。

【アイデンティティ=自己同一性】
自己嫌悪もだめ、自己愛もだめ、そこを経て、「本当の自分は?」と考えるようになる。その時のゴール、到達点にされるものが「自己同一性=アイデンティティ」でしょう。

渡邊泰子は、とても不器用な、言いかえれば徹底した個性をもっていた。周囲の印象は、いつ、だれが見ても同じだった。「アイデンティティ」にこだわりをもっていた。そこから踏み出せなかった。これが彼女の個性でしょう。渡邊泰子のなかでは、徹底したこころの冒険、途(みち)があるのです。このアイデンティティも、難しい概念ですね。でも、これってこころの平安や情緒の安定を得られるかどうか、とても大切なものです。生きる価値になる。

【3つのアイデンティティ】
そうなりたいと願うアイデンティティ(A)、現在の自分というアイデンティティ(B)、それに、意識はしていないが自分がそうなるとなにかしら充足感が得られるというアイデンティティ(C)、という3つがある。普通はこのABCが、ごちゃごちゃになっている。

円山町に立つときは、いつも同じロングヘアのカツラ、ベージュのコート、革のショルダーバッグだったと証言されている。場所も変えなかった。帰宅する電車も同じだった。嗜癖です。

アイデンティティは信念につながる。仕事の面で出れば、リーダシップやとんでもない創造につながる。こころの世界は紙一重です。

創造的企業には、カルト的ともいえる価値観があることも多い。
偉大な芸術家や、大学者には、徹底することの「変人」が多い。



5時からの奇矯(ききょう)な行動

異常なほどお金の計算に細かく、道端のいろんなものを拾う癖があった。5円玉、10円玉を集めて百円玉に、そして1000円札に、1万円札に、逆両替する。

彼女は「客」とホテルに入ると、3本の缶ビールを流しこんだ。その際1本は決まってアルコール度の高いビールを選んだ。井の頭線の終電で菓子パンを食い散らかし、円山町の暗がりで立小便をする。ラブホテルのベッドにときどき小便をする。

渡邊泰子の普段の上品さと比べると、とても奇矯(ききょう)な行動に見えます。しかし両方が同じひとつの全体をもった「渡邊泰子」です。奇妙な凄惨(せいさん)な振舞いが一貫しているのです。

ホテルから出入り禁止を言われると、渡邊泰子はていねいな、おわびの手紙を書いた。

【演技する自己】
映画、舞台、テレビでの演技は、みんながフィクションと了解している。女優が日常でも同じ生活をしているとは誰も思わない。でも女優には、現実とフィクションの切り替えがうまくできない人も多い。例えば国際派女優と自称するあのひと。「大」のつく女優に多い。

普通は、チャンネルの切り替えがある。渡邊泰子には社会に向かった二つのチャンネルがあった。経済学者としての職場と売春婦としての円山町。そしてそれぞれの舞台では、アイデンティが演じられた。あぁ、これも皮相な解釈。

ここでどう理解するか、精神医学を覗(のぞ)きます。

家族の問題です。われわれが、最初の他者に遭遇するのが「家族」という生活共同体です。

「幸福という幻想」に向かって計画化された「家庭」

「いい家庭と家族」の暗黙の社会規範が決まっていて、それに反することを抑圧するのとちょうど同じに、親が暗黙に決める、こうなりたいという「家庭設計」がある。「現代」は特にこれがつよい。
昔からそうだったか?

5月16日の日経新聞の夕刊15面で、懐かしい名前と写真を見かけました。馬渕明子、大学で同じクラスだった。当時からずいぶん大人びた静かな気品のある人でした。私は、とても子供だった。相手にしてもらえなかった。あと二人いますが名前は言いますまい(笑)

<歴史家フィリップ・アリエスは『教育の誕生』の中でヨーロッパにおける「子供」は近代の産物で、18世紀までは人々は子供にたいしてほとんど無関心だったと述べている。「子供」は大人から見てむしろ動物に近く、自分で生活の糧をかせぐまではただ手のかかる生き物に過ぎなかった:馬渕明子(日本女子大教授)>

日本では戦前もこのヨーロッパの18世紀に似ていた。現代とはだいぶ違います。
今は、家庭設計で夫にはもうこれ以上の期待はできないから、期待は子どもに向かう。「ありのままの子どもを無条件に認める」母という役割から、「こういうことをやってほしい、こうなってほしい」という子供への期待がつよくなる。

<きつい>仕事の場、社会から解放された主婦は、子育てが、仕事のようなものになる。子供の幸福を願い、成長を願う善意のものです。しかし、これは子供の側からは、つきつけられた要求になることがある。要求は、条件をクリアした後の承認です。要求に応じないときは、否定になる。

設計

<現在の子どもたちは、私たちの親や祖父母とは違う生まれ方をしていることを指摘しておかなければならない。現代の(少子化時代の)子どもたちは、親の人生設計に沿って生まれてくる>

子供の役割

<子どもたちはもはや神さまからの授かりものや恵ではなく、親が自らのために設計した人生コースの中に、あらかじめ役割を与えられて生まれてくるのである>

戦術

<子産みは、親の人生競争における重要なタクティクス(戦術)である。妊娠のタイミング、子どもの数、子どもの人生コースなどを慎重に測って、親になる。自らの人生を豊かにし、成功に導くための子産みであり、子育てであるのだから、親は子どもに期待した役割の遂行を求める>

子どもが受け取る無言のメッセージ

<言葉に出さなくても、素振り、視線で求める。子どもは親の期待を読み取り、それに沿って生きようとする>

<こうして現代の子どもは、親の連れて歩きたい人形、親の果たせなかった願望の肩代わり役、親の自慢の種、親の愚痴の聞き役、親の依存対象、親の権力のままになる奴隷のうちどれか、あるいはいくつかになる>

<いずれの役割に就くにせよ、この子どもたちは、親からの個別化に失敗した、自己愛的な大人にならざるを得ない>

親からの個別化の失敗とは、親が設定した枠組みからはみ出さず、別の自己を作ることに失敗するという意味です。家族は、人にとって最初に遭遇する他者です。母も近親の他者であることに変わりはない。ここで、母が設定した枠組みに留まるのが自己愛。

社会へ出たとき、自己とは違う他の人を認めるような相互関係をうまく築くことができない。言いかえれば、自己愛の枠にどどまる大人になる。最近、周囲に、こうした人を多く見かけます。

暗黙の計画の挫折

<もっとも、すべての子どもがこれらの仕事をうまくこなしているわけではない。それどころか、この子どもたちは、これらの役割に、いつか挫折し、親に「申し訳ない」という気分を抱えこんでいる:以上の<>は『叱れない親と叱りすぎる親』:斎藤学>

家庭というもの

家庭は、機能的なものではなく生活共同体です。「生活共同体」は、目的や機能とは無関係な次元にある、婚姻と血でつながり、根底でお互いを、理解し、赦(ゆる)し合うような相互扶助の単位です。

ところが、この共同体がいつのまにか「共同幻想」で作り上げた<理想の家庭、豊かな家庭、幸せな家庭>へ向かって「設計:戦略」と「目的」をもつようになってきている。とても、アブナイ・・・

ある日、理想の家庭という目的に添わないようことが起ると、ちょうど会社が壊れるように、家庭も、家族の関係も壊れる。会社は目的を持つべき経済機能的な組織だからそれでいい。家庭や家族は違うはずです。

家族は、他から借りてきた<理想の家庭>を目的にすると、外形は保っても、「こころ」のレベルで壊れやすくなる。お互いが、相手に理想を押し付けるから。

そして、親も子も現代人の多くが、帰るべき場所を失う。田舎に田畑をもった両親がいる時は、まだ救われた。東京で破れれば、貧しくとも帰る場所(フルサト)があった。故郷というコトバはもう死語になっている。仮に田舎でも。こうなると職場という組織は、苛酷なものになる。

職場は成果主義、2割の勝者と8割の敗者を生む。2割の勝者もつぎは8割の敗者になるかもしれない不安を抱える。

多くが脱落する。

家庭もこころが帰る場所でなく、田舎もない人にとっては、こころのよりどころはどこにあるか? 預金か? 年金か?
やはり、出会いとセックスか?
親も子も、みなが同じ問題を抱えている。17枚になりました。
3部へ続く

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 2001年5月18日(Vol.46):随想 こころの闇(2)

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