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こころの闇(第4部):完結編
         渇望の仕組みと構造
         共同幻想の価値の序列
         粋(いき)という、緊張をはらむ美意識

こんにちは、吉田繁治です。今回のシリーズでは仕事、生活、生き方にかかわる「現代人のこころの問題」を、東電OL「渡邊泰子」を素材に、われわれにも共通な問題として考察しています。
今日で、完結です。

■目次

<項目から内容を想像する3分間>

(Vol.48)随想 こころの闇(4)完結編

1.<こころの闇>をお届けする目的
2.欲望の自己拡大:渇望(かつぼう)の仕組み
3.形成された共同幻想の価値の序列の仕組み
4.結語:「粋(いき)」という緊張をはらむ「美意識」

■要約

<インテリジェンスの3分>

現代人の仕事のやる気、生きることの意味は、「自己実現とアイデンティティ」に関わる。「自己とはなにか?」という問題。会社は機能組織である。「こころのラスト・リゾート」であるべき家庭まで暗黙の理想の家庭を目指し「要求条件つきの承認」を行なう「機能組織」になったとき、要求を満たせないこころが帰る場所ではなくなる。

渡邊泰子は、20歳のころ志なかばに死んだ父が<理想化された内なる父:インナー・ファザー>に化身し、ダメな泰子を叱る内的状況を求めた。売春とオカネへの嗜癖は、父の死後精神的には家長役であった泰子が失われた資産を回復する、「代償(だいしょう)行動」に見える。

つかの間の豊かさの幻、手が届く贅沢の幻想を与えたバブル経済は、この国の人のこころに傷跡を残した。「人生の成功の世俗的な価値の序列」ができあがり、無意識の渇望(かつぼう)となり、不満足、挫折(ざせつ)感、白けを抱え、そこから逆転して嗜癖(しへき)、耽溺(たんでき)への傾向も生じた。

現代社会は、心理的には「欲望の自己拡大、満たされない欲望、欲望が満たされない時の渇望、憤怒(ふんぬ)、恨(うら)み」を、個々人のこころに内部化してしまった。常に、充足されない感覚である。

現代人の過剰への傾斜に歯止めをかけ、こころの安定をよびもどしつつ、エネルギー含みながら抑制するバランスのメカニズムは、「いき」という忘れていた日本人の文化がもつ「美意識」の復権である。
                      (summing up)

<さぁここから、「知」のジャーニーへ>

■<こころの闇>をお届けする目的

渡邊泰子が直面した男社会の向かう方向

1980年に慶応大学経済学部を卒業して東電に勤めた渡邊泰子は、日本の、キャリアウーマン第1世代と言える。当時の女子4年制大学卒業は10%だった。20年後は、それが40%に急上昇している。

女性がサブ的な仕事から、責任をもつべき仕事へ進出すると、男にとって都合がいいように作られた仕組みや意識との格闘が始まる。これは日本に限らない。西欧・米国でも程度の差はあるが、見えない壁、天井といわれる暗黙のGlass Ceilingがあります。

こうしたことに対しての最終決着では、意識改革は必要ではあろうがそれでは弱い。要は会社が、仕事の生産性の面で、大きな損をしていると気がつくことでしょう。

人的な生産性の面で、未開拓の領域があると気がついて女性が男性と対等のポジションで仕事ができる職場の会社が伸びれば、利益原理によって修正されて行く。私には、それが迫りつつあるように思える。

仕事のやる気、生きる意味

次に、男女共通の、仕事のやる気、及び仕事の意味、生きる意味の根底にあるものは、なにか? 仕事をすることは、生活のマネーを稼ぐためということを含みながらも、それを超えるもの、つまり「自分にとっての仕事の意味」、「社会にとっての意味」にまでつながります。

【自己実現とアイデンティティ】
これが、「自己実現」や「アイデンティティ」とコトバでいわれるもの内容です。普通は、意識しません。しかし時に訪れる、決断を要する、重要な選択を行なう場面では、このことが強く関わります。

「自分とはなにか?(アイデンティティ)」、「どんな時にやる気が出て、充足感があるか?(自己実現)」が、問題になる。

目先の目的と、目先の目的を超えるもの

二つとも「本当の自分とはなにか?」ということです。考えれば考えるほど分からなくなる。仕事は金目的、これでOKだと自分に言い聞かせる。しかし一方では別の自分は、目先はお金が目的だが、本当の目的はそれではないと思っている。

米国社会での自己は自己を発現

米国では、自分の精神分析医を決めているエリート、トップが多い。日本では精神科に行くと「あのひとは変になった」となる。精神科は選択肢にない。なぜか?

米国の社会は「自己責任の国」、「個人評価の国」。自己や個性をしっかり保っていないと、生きて行けない。「君の意見は何か?」「君は何を選ぶか?」と、常に問われる。子供の時から「me」をはっきりさせる。親とも距離がある「YouとMe」

ここで「自己とはなにか?」がわからなくなったり、カオスになると精神分析を訪ね、分析医と話し合い、「あぁそうだったのかぁ」と、自分を納得させ、高額のオカネを払い、再び仕事に向かう。

日本社会での自己は自己を抑圧

日本の社会では、個人の意見や選択を問われることが少ない。個人の意見をいうときは、わざわざ「個人的な見解ですが・・・」と注釈をいれるくらいです。全てが、個人の脳というフィルターを通って出てきたものであり、もともと個人的な見解であることは決まり切ったことなのに、個人を露わにしない。

自己やアイデンティティを保ったり、己の主張をはっきりさせると、「出る釘は打たれる」、「変わってる」、「利己主義だ」とされる。自己を発現するというより抑圧する態度になる。他との違いを、あからさまに出すことは「和」や「協調性」を乱す。同じだということに意味を見出し、同じだと確認し、安心する社会です。

【本質部分では】
ところが根では米国人と日本人は変わらない。したがって「自己とはなにか?(アイデンティティ)」、「どんな時にやる気が出て、充足感があるか?(自己実現)」への執着は、日本人も米国人もかわりません。日本は米国より自己を抑圧し、米国は日本より発現する。

【日本社会の特徴】
日本の社会では「精神分析医の役割」を果たすのが「上司」「同僚」「友人」であるのが特徴です。頻繁なコミュニケーション(非公式の会合、アフターファイブ)、友人が大切になる。
(このメールも?、コンサルタントって、実際は、精神分析医の役割も必要なことが多いのです。仕事は経営者、幹部、社員の生き方に関わります。単に技術の提供だけではない。)

ここで、一途に、生真面目に、孤立した自己を保ったのが「渡邊泰子」という個性です。彼女は「個性の内面」を他の人に話す相互侵入をおこなうことはなかった。嗜癖の個性的な行動で表現した。孤独の影、会社に対する突っ張りの姿勢がある。欠落は、笑いと美意識。

【家族は?】
この時、ラスト・リゾートであるべき家族はコミュニケ―ションの選択肢にならない。「(子供は)親には言えない」、「(夫は)妻には話せない」、「(妻は)夫には言えない」、「(両親は)子供には聞かれたくない」ということが増える。渡邊泰子は言えないことをリミットまで増やし、しかし行動では表現した。

家族間で深いコミュニケーションが成立しにくい理由

なぜこうなるのか? 理由は、前に示したように、家族が「存在のありのままを認め合う共同体」ではなく「あるべき家族」に向かって意識的・無意識的に「設計された機能組織」になることが多いからです。

この時、世間的・世俗的な「成功のランク付け」がある。

【条件つきの承認になっている】
あるべき家族では、夫は妻へ理想をもとめ、妻は夫へ理想を求める。「両親は子供へ」、「子供は両親へ」と、お互いに、家族の成功、理想と思うことを、要求しあっていることにもなる。
政治的なコトバ(要求と承認条件で争う政治的世界の言語)といってもいい。

精神分析では、「条件つきの承認」同じ意味ですが「条件つきの愛」といわれるものです。

【条件つきの承認の仕組みと構造:政治的コトバ】
条件つきの承認では、「***ができれば、***であれば、***」、という論理の構造になる。「お利口にしていれば買ってあげる」、「成績がよければ買ってあげる、愛してあげる」ということです。承認の取引条件があるのです。

こうしたコトバは、敏感な人、責任感のつよい人にとっては、「短刀」に思えることもある。受け取る感受性の個差はあります。

利益で成立する機能共同体=企業では

多くの現代家族は、会社という収益目的をもった「機能共同体」の業績や個人成果評価と、言葉の構造が、似たようなものになっています。

会社はそれでいい。「個人成果という短刀」をつきつけられるのは、オカネが絡むから。こんなことは、問題ではない。これには、勝つべきです。成果のやりとりという、取引。

【会社の個人業績評価で必要なこと】
公正(fair)な評価が必要。公正fairは公平とは違って、あらかじめ数字(量)、コトバ(質)で示された「評価のルール:ゲームのルール」が正しく適用されること。恣意でルールを変えるえこひいきがあると公正ではない。評価が、効果ではなく逆の害を生む。

さらに、その評価のルールに相互承認(コミットメント)があることです。これが就業契約です。契約は、お互いが承認しないと契約になりません。「自律」といわれるものです。21世紀のマネジメントのキーワードのひとつ、自律の相互コミットメントでしょう。

家庭は?

こころの最後の拠り所(ラスト・リゾート)とも言える「家庭」が、会社のようなものになると、条件を満たせない時は、「自分はダメだ」と、表面の反発とは裏腹に、深いところで自己否定します。

【抑圧されたもの、無意識のものがあらわれる夢】
内心での自分はダメだという自己否定が「夢」になってあらわれる世界です。入学試験や遅刻の夢なんか、パニックを起こす恐怖です。みんな経験があるでしょう。あれは、醒めた意識ではつまらないことでも、本当に自己がひっくりかえるくらい怖い。夢でよかった、醒めてよかったと、こころからホットしますね。

周囲、家族、同僚、または恋人から言われたちょっとした気にかかる言葉、あるいは言葉に出さなくてもなんとなく、素振りや視線で感じているが、さして意識しないこと、こうしたものが、心の内部では、程度の差こそあれ、脅迫観念になっている。繰り返しますが、受け取るインパクトには、個差がある。

【渡邊泰子の脅迫観念の怖さ】
夢の中のパニックの脅迫観念を、<理想化された父の視線、内部のことば>として常に抱えていたのが、渡邊泰子の自己分裂といえば、泰子が抱えていた、こころの世界が実感できるでしょう。これは苦しいでしょう。想像ができます。

【現代家族の機能性】
現代家族では極端に言えば、夫は給料振りこみマシン、妻は家事と育児と性の提供マシン、子供は学校での勉強マシンになる。いずれも「人間」が消えます。こうした家族は、いけませんねぇ。いずれ問題が起る。多いかなぁ。

【家庭と職場以外の、淡い相互承認の代理の場】
携帯電話での友達との無目的に思えるダベリ、頻繁な連絡、カラオケでのコミュニケ―ションが、実は本人は意識していませんが、この場が「相互承認」と「自己の安定」、「アイデンティティの確認」に結構たいせつな役割を果たすのです。淡い、相互承認の場。

友人では「次のテストの成績がよければ、聞いてあげる」ということはありません。友との関係は、普通は、条件付きではない。
親しい同僚では「昇進したら聞いてやろう」ということもない。
こうした人が周囲に多ければ、ある程度は「安心」です。

交友関係はどんなに広くても、相互承認の程度が浅い時は、深い安心は得られません。現代人はそうした人が多い。お互いに、内面を明かすことを避けます。やはり重要なものは、家族、恋人、夫と妻、職場、学校という場なのです。そこで大切なひとひとりでいいのです。それで、自己が安定できる。

相互承認の場が崩れると

家庭、職場、交友関係で、相互承認の場が壊れて「自己の安定」を支え切れなくなると、極端なケースはいわゆるあちらの世界の「カルト」に跳んでしまう人も出ます。普通は、踏みとどまる。

根源は、こころから「自分の存在」を条件付でなく認めて欲しいという希求でしょう。カルトはいけませんねぇ。自己を活かすのでなく殺すような強い依存です。宗教は、マルクスが言ったように麻薬の部分を含みますね。

【奇矯な行動が含む意味】
弱い個性、または、すべてに完璧を求める個性は、ここで、いろいろな嗜癖(しへき)、耽溺(たんでき)、憤怒(ふんぬ)、恨み、自己愛に見られるような「奇矯な行動」をとることがあります。

奇矯な行動であると本人は意識しています。奇矯な行動は、世間、周囲、社会の注目を集める。注目が必要なのです。「自分の存在」を認めさせる必要があるから。舞台が必要。

人は、無人島に行けば、奇矯な行動はとりません。観客と舞台がない。そこでも奇矯な行動をとるなら、物理的に、脳が壊れた精神障害です。

渡邊泰子の、裏返しになった自己承認のドラマの筋書き

渡邊泰子が、路上で男を誘って売春をしたり、大勢がいる電車で菓子パンを食い散らかしたり、立小便をするのは、注目する観客、舞台が必要だったからです。演技的自己を意識する自己がある。

このとき彼女の内部認識では、自分はダメな人間。しかし普通に見れば、ダメではない。ある程度の地位、収入、頭脳があります。

なぜダメか?彼女を本当に評価するのが、20歳のころ肉体は死亡して、しかし<彼女の内部には記憶で鮮明に生きる理想化された父>だったからです。内部基準が高い。世界記録を作ったランナーが、日本記録では、挫折と、引退の時期と感じるのと同じです。

なぜ・・・そうしたこころの構造をつくった?

最愛の父の死を認めたくなかったからです。弔(とむらい)は死を確認するための行為です。儀式は、こころの世界では意味をもつ。彼岸を追いやって、分けて、生者の荒ぶる魂を、此岸で鎮める行為。

泰子は、生きていて欲しい父を<インナー・ファザー>として呼び込んだ。自己には(1)見られる自分としての自己(即自=肉体と過去)と、(2)見る自分である自己(対自=意識と現在及び末来)がある。普通は、見る自分は、将来に向かった意志による選択の自由を持つ。人間は自由。

渡邊泰子は見る自分(対自:自由意識)を理想化された父に占拠されていた。理想化された父から見れば、どんなに正のパフォーマンスをしても、自分はダメである。永遠に乗り越えられない焦燥が焼く。

【ダメな自分の基準】
東大に入れず、上級公務員試験に合格できず、海外派遣留学に選ばれなかった。孤立した自分の存在は、迷惑がられている。結婚し子供を生めと周囲の視線が言う。普通は挫折でないものが、彼女には深い挫折だった。自分はどこにいるのか。否定形からの出口を閉ざした自己。
<ねぇおちゃしまんせん?> この国ではお茶は、共感の象徴。

泰子の個性には、普通の人が容易にできる妥協、受容の遊びがない。

理想化した父の目は自分を認めてくれない。どうしたらいいのか?精神の化学反応が起る。ここが、「こころの闇」です。起った結果は見える。精神の化学反応の構造は、わからない。以下は、精神医学の仮説。精神医学の仮説は、こころのメカニズムの現象的な説明。

どうせダメなら、徹底的にダメな自分を見て欲しい。そして「泰子、お前ともあろうものが、なんてことするんだ、許せない」と叱って欲しい。

「叱ること」は泰子への無関心ではなく、泰子の存在を認めた状態です。無関心なら放置される。父は、物理的に死んでいるが、泰子の心の中では生きている。叱っている。叱るのは、条件付の愛です。無条件の承認ではない。だから愛は得られない、得られないから求める。

泰子の<こころの闇>が見える感じがします。
そうして泰子の位置付ができるようになった。

「性」の本質まで示したのは、人間の全体に迫りたかったためです。びっくり?エロじゃぁありません。エロ?まぁいい。読んだ人が決める。相互承認の性行為は「ラスト・リゾート」を失った現代人にとってエネルギーを含むやすらぎ。小説というフォルムが飽きずにテーマにする理由。実はエロティシズムも深い(⇒ジョルジュ・バタイユ)

「知る」ということの効果

Anyway、感想・ご意見、あるいは共感・異なる見方をいただいています。単純化して、まとめることはできませんが、女性と男性で、およその仕分けができることが、わかりました。

女性の場合は、渡邊泰子とった行動がわかるという共感からの感想と意見が多い。男性の場合は、考えたことがなかった、またはこんな見方もできるという観点が多い。数は女性10に対して男性2くらいです。5倍ですが、読者数の性別分布を考えると女性が15倍です。

私の関心は、彼女がわれわれも関わっている「根底的な問題」に直面した。その問題とはなにか?その全体に、想像力と若干の概念を備えて、共感に立った分析で、迫れないかということでした。

80%くらいの方は、どう位置付けるか戸惑われたことと思います。
会社では気になって読めないとかね、無理もありません。(笑)
20%のくらいの方はこころの嵐が起ったかもしれません。

大切なことは「知ること」です。自分を動かしているもの、欲望、渇望、焦燥、満たされない不足感、挫折感、こうしたものの仕組みと構造を知ること、これがこころの「乗り越え」を可能にします。



以下では、「成功ということの通俗の価値」を解きます。
世間的な、通俗的な成功とはどんな「価値の構造」をもっているのか?

価値の構造は、意識的、無意識的に行動を支配します。渡邊泰子は、<理想化された父の目>だった。われわれも、世間的な<価値観>を、自分のなかに含んでいる。意識されたものは、ほんの少し。

しかし、すべての人が、支配されているわけではない。
程度の差が個差としてある。それを確認しておきます。


■渇望の仕組みと構造

ひとつの頂点を経たあと

今から思えば、みなが貧しかった時代は「こころの問題」が大きく浮上することは少なかった。社会の問題の根源にある貧困が解決すれば、人間は幸せになれる、十分なモノがあれば豊かで幸福な生活ができると想定されていた。これが経済成長を促した根でのエネルギーであったといって間違いがないでしょう。幸福と個性の横並びの時代。

1980年代末の「あぶく銭(ぜに)の時代」は、モノの豊かさと、都市圏(約7000万人)では土地資産の評価での豊かさの「気分」が、頂点に達した時代。問題は実質でなく豊かさの「気分」だったということです。そして、その気分は消え、1997年ころからは、米国にうつった。それが、共同幻想で動くマネーの移転です。

その頃からこの国では、過去にはなかった「変な事件」が起った。あまりに多く、風俗として枯れ、社会の共通記憶の闇に沈む。

価値観に化学変化が起ったように思える

(1)「とりあえず」の物質的な面での充足、(2)それに、資産的な「豊かさの気分」の高揚、直後にそれが、ストンとなくなったことが、人間の重要な部分と、価値観に、深刻な化学変化を起こした。マネーは時として、平常心・抑制・人のこころを狂わせることがある。

醒(さ)めて白けた1990年以降、多くのひとが不安、不満、こころの拠り所のなさ、充たされない情緒、それゆえの耽溺、依存を抱えるようになった。

モノの充足が、幸福をもたらすということは嘘だった。渇望を生んだ。モノの充足は、必要な条件ではある。それは十分な条件にはならないという至極当たり前のことを、多くのひとが生々しく体験した。

あぶく銭(ぜに)の共通記憶の後遺

つかの間の、バブル期といわれる「気分だけの豊かな時代」が、「無意識の価値観や人生観」に及ぼした影響は大きなものがあった。そして共有記憶となり、時代の後遺症として、支配している。そのなかで20歳代は未経験で、語りでしか聞かない。距離がある。

80年代末に住宅を持っていた65%の世帯にとっては、住宅の高騰、地価の異常な上昇は、突然の予期せぬ幸運だった。20坪前後の、「マンション」という販売促進用語の集合住宅は、東京では1億円、あるいはそれ以上の価格をつけた。中味があるとは思えなかった。しかしピークの時期には1週間で数百万円の幻の上昇に、人は熱くなった。

数字に過ぎなかった「億」が、この国で形をもった。しかし、うたかたですっと消えた。守ることはできなかった。しかも、回復はない。

一隅で、勤勉に、倹約の生活をしていた多くの家庭の、生活意識や、価値観、生活観、そして人生観が、影響を受けないということがおかしい。われわれは、共通に異常な時代を経た。それから12年。

日本人の「ライフ・プラン」の根底は、壊れてはいない。貯蓄率はまだ十分に高い。10年は続く。貯蓄の構造は変える必要があるが。
楽しみを先に消費するような破滅へ至る行動は、大部分の人は行なっていない。破滅したひとは多かった。破滅のあとは? まだ人生が待っている。そこから、どう、プランを立てるか?先はある。

バブル崩壊は、楽しみの先取りをした人から、倹約と利益の蓄積をしていた人へ富が戻ったことです。「自然なこと」に戻ったと感じます。さぁ、再び、これからだ。向かう先は、「時価主義」という世界。

渡邊泰子の<象徴化したマネー>の構造を解く

【10年後に迫っていた、渡邊家の借地権の更新】

渡邊泰子の売春の「仕事」を、「経済合理性」の観点から見てみましょう。彼女が家族と住んだ杉並区永福の一戸建て住宅の土地(借地)は、80坪です。価格のピークの時期は、1坪当たり500万円、つまり4億円はしたという。

借地権の価値は、地価の時価評価の約50%(≒路線価=相続税の課税評価額)とされるから、父:達雄が残した渡邊家の家屋の借地権は2億円あったことになる。母子世帯の「億」は象徴的意味を持つ。

地価は底無しに下落した。いや、転落か。渡邊泰子が、自らのノルマにした売春をはじめた時期は、地価の下落がはじまったときと符合(ふごう)した。彼女は経済学者であった。下落が大きいことの予感を、経済分析から鋭敏に感じただろうことは想定できる。

渡邊泰子は39歳で絞殺された時年収1000万円。金銭には異常とも言える執着を示した。渡邊「家」の長女として、仮想の家父長になった泰子は、父が残し地価暴落で日々失われる象徴財の回復をめざしたというのは、うがち過ぎか。「イエ」は生活共同体の象徴だった。

【自らに課した家父長の役割】
父の跡を継ぎ東電に入社した。収入があったのは彼女だけだった。当時の職場の同僚女性は<あんなにつっぱっていて、大丈夫かな>と思った。

泰子には、一途(いちず)さと潔癖と責任意識の個性があった。結婚という選択には蓋をした。20歳の痩せた身体に「意識」が与えた役割は、父がいない渡邊家の「家父長」 母は働いてはいない。妹は子供だった。収入の支えがなくなれば、イエは崩壊する恐怖があった。支え切れるか。<父の名前をはずかしめたくない>

借地権の更新は迫っていた。どんな方法があるのか。

ほとんんど思い浮かばなかったこの視点に気がついたのは、彼女の慶応大学経済学部時代の先輩という人から<彼女が住んでいた住宅の、借地権の更新契約が10年後に迫っていた。お金が必要だったであろう>とのメールを受けたときです。読者1万1000名の方にはいろんなキャリア、経験、思い、想い、プランの人がいます。

「サラリーマンの勤務のように」勤勉な売春の、開始時期、つつましい生活での、マネーへの執着の謎が氷解したような感じをうけた。

本稿には、前号の「キャリアウーマン」の方のメールも含め、メールマガジンの双方向性が活きている。リアルタイム性の効果ですね。

推論に留まる。その方法しかない。彼女は、家計財務設計は専門家。しかも、そこに責任感、一途で生真面目な精神がある。

32歳のころ1回の売春が2万5千円から3万円だった。ノルマと課した4人の客で約10万、月300万、年3600万円。一万円札の、密かな儀式めいたマネービルディングに嗜癖をもったことが見える。ここでは、マネーはモノを買うための手段ではなく、象徴的ものになっています。

【市場経済の凄惨さ】
年齢を重ねると、その市場価値は下がり(需給関係)、39歳の最期のころは、3千円や2千円でも身体を売っていた。東京都心の商業地の価格下落の割合と見事に符合する。

凄惨(せいさん)な悲哀を覚えるは、私の思い入れです。「おとこ」からの評価が、日々下落した。<ねぇ、おちゃしません?>

彼女が、渡邊家の「家」の維持のために、売春を選択したとすれば、ホッとした感覚と、それと同じ程度に、その責任感と生真面目さに対して、哀歓を感じる。

バブル経済は、深い影を落としている。



形成された共同幻想の価値の序列の仕組みと構造

ここから、一般論に入ります。普通のひとの内部に住む、欲望の再生産、渇望、嗜癖という、社会を写すこころの世界の問題です。

泡沫(うたかた)の豊かさの気分は、われわれの価値意識を変えた。

90年当時は、世界史上最高の貴族型消費と言われた。それまでは無縁だった消費の世界が、誰にでも手が届くように思われた。街にはグルメレストランがあふれ、高級ホテルやリゾートが開発され、フーゾクは猖獗(しょうけつ)を極め、ブランドモノがブームになっていた。

この時、「大衆消費社会」に特有の「価値の序列」ができあがった。一握りの人たちの贅沢であったものが、大衆化した。とりわけこの国特徴は大衆化にある。階級は壊れて微差になった。したがって価値問題は複雑になって、隅々までを蔽(おお)う。静的西欧とは、違う。

価値の序列

ガラス張りのハイテクオフィス、ブランド大学、有名企業、さらさらの髪、磨き上げたスレンダーな身体、若さ、目くるめくような恋、高価なペット、素敵な音楽、知性にあふれ優しい夫、深く愛されること、海外旅行、一流ホテル、スィートルーム、プール、エステ、身もこころも溶かすようなセックス、多くの友人、グルメの食事、瀟洒な住宅とインテリア、性能のいい外車、お受験、別荘、会員権、メンバーシップクラブ、リゾート、ブランドモノ・・・で価値序列がある。

生活に懸命のときは、価値序列が希求の対象になることはすくなかった。世俗的価値の共同幻想(間主観)の世界が、大部分の人に、手が届くように思えた。チラリと向けられる世間の視線が、100万語を費やすより、多くのことを語ることをみんな知っている。この視線が価値の序列を、舐(な)める。視線は語る。自己は否定される。

これらに接近することが「人生の成功」とされ、共同幻想の成功序列が、こころには、渇望構造としてプリントされた。欲望は対象の欠如。

価値の上位に至れない人生は挫折、羨望(せんぼう)、嫉妬(しっと)、恨み、またはあきらめを刷りこまれる。社会の価値観が、こころの内部に、価値序列として写された。主観⊃間主観⊂主観

内面の意識の分裂へ

「世俗的価値の階段の序列」で、ファイブスターの最高ランクが満たされたとき、幸せや、安定した充足があるのか? 

そんなものがあるわけがない。こころの底ではよく分かっている。外形の充足は、幸せの幻であるとの意識は、明確にある。それは、ホンモノのゴールではないと、みんなが了解している。じゃゴールとは?
ホンモノとは? ここで、こころの分裂が、起こり、亀裂する。

こころの分裂

(1)外形的な豊かさへの渇望は、至れない時の敗北感、挫折感、怨恨(えんこん)、嫉妬を生む。焦燥が住みつく。
(2)外形の豊かさでは満たせない内面的な幸福への渇望は、現在の生活がニセモノであるとの意識を生む。現在が仮の人生になる。

こうして、物心両面での欠落感と焦燥感を抱え、多くの現代人が生きているように思える。こころのカオス、エネルギーは渦巻く。レヴィ・ストロースが言う<熱い社会>です。

こころのカオスが整列(organize)するとき

豊かさや幸せが、将来に投影されて、透視図ができ、可能性が見えれば、仕事と生活のエネルギーが生まれる。ビジョンのゴール(到達点:着地点)としての効果をもたらす。

こころのカオスが、目標:ゴールに向かって整列する。
やる気と努力が、生まれる。リーダシップの効果です。

こころのカオス

しかし、それが、つかの間の豊かさや充足の経験の気分として残るとき、方向を持たない、不健康な焦燥、欠落感、敗北感になる。

自分の可能性や将来の成功と幸福に、信念をもてない状態、自分では方向が設定できない状態。このとき、こころの世界では、「依存や嗜癖」が生じる。こころは現在を動く。じっと待ってはいない。

豊かさの幻想への嗜癖(しへき)

若い女性に多くみかける、ブランドへの依存も、差こそあれ、こころの世界では「嗜癖(しへき)」とみることができる。

なぜ若い女性なのか?非論理の世界の「皮膚感覚」が鋭敏だからです。男は、それを「論理」で理解しようとする。ここですれ違いが起ります。感じているものの内部感覚の次元が違う。これを埋めるには、「相手の立場に立つイマジネーション」しかない。おとこの性は、目で外界を見る。おんなの性は、皮膚で外界を感じる。感性⊃理性

ホンモノとニセモノの幸福

彼女らも、エルメスで囲まれて、ホンモノの幸せや満足がもたらされるものではないことを、知っている。内心の声は「そんなの嘘だ」と言い距離をとる。しかし、皮膚は、すっと溶けこむ。

男はエルメスを「理と原価」で見る。非合理に高いと思うが、ねだられると買う。これは、「贈与」の行為です。贈与は相手が価値を認めれば、成立する取引。贈与は近代商行為のプロトタイプ(原型)になる。男と女の間では石器時代から価値の交換を行なってきた。

交換が成立するのは、男と女は感性で異なる世界にいるからです。接吻の時、男は、女の閉じた瞼を見る。女は、目を閉じ感覚に没入する。誰から教えられたことでもない。本能的な自然です。男とおんなは同じ行動をしているが、内部感覚は異なる。感性⊃理性

嗜癖へ・・・

憧れのブランド商品(嗜癖のobjet)は、一旦手にすると目的に達したことの充足感が消え、ますます満たされない感覚が残ります。

そうすると、さらに高価な、または新しい、ほかの人がまだ持ってない次の商品objetに向かう。企業の優れたマーケティングと商品開発は、意識的に、この渇望感、未充足感の自己拡大を、利用する。

欲望の自動拡大=渇望の仕組みと構造

エルメスを頂点とするブランド商品の、3ヶ月から6ヶ月での新作の発表、アパレル・ファッションの先頭であるパリ・コレクション、ミラノ・コレクション、NYファッションは、対象とする顧客の階層、または顧客グループに対し、渇望感を植えつけて高揚させる。

【4条件】
ファッション・マーケティングが有効になる条件は、(1)顧客グループの中の他の人が、新作であることを知っていること、(2)しかも他の多くの人がもっていないこと、(3)他の人も無理をすれば買える可能性があること。(4)最も大切なことは伝説があること。

この4条件が稀に、バランスをとって揃ったとき、こころの嵐が起る。渇望感を高めるには、商品は不足状態、または高価でなければならない。誰にもいくらでも売るという裏が見えると、渇望は消える。

欲望が人を支配した状態

こうした欲望(嗜癖)の自動拡大装置を、現代人は内面に持っている。手が届きそうで届かないものが、渇望と欲望の対象になる。女優、俳優、タレントは、メディアの向こうで手がとどかないから、シンボル(象徴)となって、満たされない欲望のオブジェになる。

欲望が、臨界を超えると、意識をねじ伏せる。対自の意識が、即自としての自己が含む欲望を、制御(コントロール)できなくなる。

目的のモノを手にした瞬間に、充足が消え、不足感が拡大し、欲望がさらに拡大する「こころの現象」を精神医学では「嗜癖」とか「依存」とか言っています。一方では、これが、有効な創造的なものへ企図され、向かうと、すばらしい会社ができる。

わたしにも強い嗜癖がある。異常とまでは、いかないけれど。

持てば持つほど、より欲しくなる、満たされれば満たされるほど欠乏感が強くなる。目的とするモノやオブジェ(objet:対象)は、個性で異なります。これが経済のダイナミズム原動力です。理のひと:クロード・レヴィ・ストロースの<熱い社会>です。

とりわけ、この国ではブランドへの嗜癖は強い。理由は? 同質的な社会で裸の個性の差が微差であり、しかし、その微差の違いの発現を求めるから。<主観⊃間主観⊂主観>のコミュニケーション。

ここまで読むと不安が残る。欲望や渇望に支配されたらどうなるか?欲望の暴走を押さえ、コントロールする、メカニズムはあるか?

本稿を通じた結論の全部ではありませんが、「ひとつ」です。
以下に示す、日本人は誰でも感知できる「粋:いき」の美意識です。



結語:「粋(いき)」という緊張をはらむ美意識

「いき」の評価ができる日本文化は美意識が高度に発達していると言える。これは感性である。感性は理性を含んで超える。感性⊃理性。今、時代の感性は、過剰・嗜癖・白け・欠落を含み、暴走した。

極めれば、「美⊂文化」「自然⊂環境」「愛・共感⊂人間」の構造

【「いき」の構造】
耽溺(たんでき)や、欲望の自己拡大、再生産は、無粋。「美」は沸きあがるエネルギーの緊張を、醒めた意識で抑制する階調(ハーモニー)。かすかに刷(は)いた紅、媚態、抑制、ダンディズム、宿命の受容。それが「いき」とされるものの構造である。
        (九鬼周造『いきの構造』:岩波文庫:昭和5年)

【自己コントロール:つつましさ:自己抑制:フォルム】
「いき」というときは、欲望を自己コントロールできていることです。過剰から意図した距離をとる媚態。美意識の、抑制した緊張、力。

わずかで貴のお茶を、様式的な作法で丁寧に淹(い)れる茶の湯の美意識にも通じる。侘び・サビ・人格のコミュニケーション・共感。

「いき」は、鎖国のため、資源の有限性が明白だった江戸時代に、庶民の階級にまで普及した、透徹し、抑制された緊張した美意識。

美意識の発達したフランス文化では「シック:chic」という感覚か。
あるいは「エスプリ:esprit」という包括概念。
19世紀末の『悪の華』の明晰な詩人ボードレールの「ダンディズム」。

対象(objet)との距離を保つアングロサクソン文化では「エレガント:elegant」 ドイツ文化ではバッハの平均率クラヴィア曲集(解釈:グレン・グールド) 多くが「いき」の領域に至る。

嗜癖や依存、欲望に支配された状態は「いき」ではない。価値のバランスが壊れている。

【可能性】
21世紀の日本の可能性は「いき」という美の概念にある。優れた伝統は、時代の閉塞の最後の妙薬。『ルネサンス』がそうだった。

古典落語も「いき」、落語にできるような人生っていいなぁ。
生の最期は「みんなありがと、はいよ、さいなら」と消える。

【こころ残り】
鍵が開いたモルタル塗りの電気も切られた空家の安アパートに侵入し、終電で帰る前に数人の男と性交し、最期の仕事場の汚れた畳の上でフトンもなく39歳の痩身で裸形の渡邊泰子が、暗い天井を見て求めていたもの

はたしてどんな至福か   ほんの少しの消える愛

そう、想うと、「わたし」の、こころの水面が揺れる。
全力で分析し、人間に共通な精神世界の解釈は示した。
「私」はこころの封をし、それを、負う。

終ります。やっと・・・曇った朝だ。

随想:こころの闇(完)

第5部として、書ききれなったことをまとめたものを雑感として載せています。

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copyright : Systems Research Ltd. Chief Consultant 吉田繁治