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随想:こころの闇(第5部):雑感
         完結編(第4部)で書ききれなったこと
         相互承認と・・・愛と幸福の映像

こんにちは、吉田繁治です。これは<こころの闇4部作>で、書ききれなかったことを、希望された方のみに<雑感>としてお送りするものです。


<Vol.50> 随想:こころの闇(5)雑感(A4で21ページ分)

1.ラスト・リゾートとしての「母なるもの」
2.自己愛の構造
3.精神世界の「対人恐怖」
4.境界侵犯としての性交
5.認められるということ
6.愛と幸福の原型
7.晴れの写真



■ラスト・リゾートとしての「母なるもの」

▼母なるものと子:精神分析の仮説

1個の独立した存在として、われわれが最初に出会うのは、「母」です。カッコをつける意味は、母なるものという意味で、それを父や、おばちゃんや、または他の代理がその役割を勤めることもあるから。不幸なケースでは、捨て子での保育所が、母なるものの代理を果たすこともできる。または恋人、夫婦。

【ありのままに承認されたい欲望という根源的なもの】
われわれが最初に出会う「他者」は母。子どもにとって「自分の存在をありのままに認める母」の存在、生まれる充足感、幸福感は共通の根本的な欲望であると、精神医学は仮説を立てている。

普通は、母(または母の代理)は、無条件に子どもの全存在を認める。
子供に対して、「条件付の承認、つまり要求である政治的なコトバ」は使わないのが普通ですね。

【政治的なコトバ】
政治的なコトバとの意味は、「相手の要求と、自分の要求の妥協を図る取引のようなコトバ」ということです。マネーが絡む仕事の世界、社会での生活で用いられるコトバは、政治的なコトバと言っていい。

当然、家庭生活のなかにも政治的なコトバがはいりこむ。日常で交わされるものは、ほとんどが政治的なコトバであると言ってもいいのです。
特に「割り切った人」といわれる人にはこうしたコトバが多い。価値の交換の学である経済学が使うコトバは、政治的な言葉です。

【母なるものと幼児のコトバ】
「母」と子の間で交わされる言葉は普通は、政治的なコトバではない。もちろん躾(しつけ)のために叱ることは多い。厳しく育てることも多い。

この時の問題は「根底的なところ」で、相手の存在、相手のかけがえのない大切さを認めていると相互に感じることができるかどうかということです。最悪の事態でも、承認を得られるかどうか、ここが問題です。

幼児にとっては、社会の全体は母です。「母乳」をもらえなければ死亡する。もちろんここでいう母乳も、生きる糧としての象徴です。

多くの人は「母なるもの」からの無条件の承認を受けている。承認されているという原体験があれば、成長し、自分の存在が認められないときがあっても、「根底の自己」が揺らぐことは少ないという。

【個人的な感傷の記憶】
個人的なことを言えば私の場合も、多くの人と同じように「母から根底的なところで承認を受けている」と感じていた。過去形でいうのは、1年半前に、脳梗塞の後遺症で、人格とコトバ、記憶を失っているからです。例え私が、殺人を犯したとしても、母は私を受け入れてくれると思えたのです。

人格と言葉があったときの、電話での最初のコトバは必ず「仕事はどう?うまくいってますか?」でした。私はその言葉に、深い愛情を感じることができた。

要求つきのコトバではなかった。私を思いやる感情が表れていた。自分のことではなく、最初に、相手を思いやる。母は、意識してそうしているのではない。愛情が言わせると感じていました。

感傷かもしれない。しかし私はそれで十分です。

▼幼児期の記憶というもの

現在は消えている幼児期の体験や記憶は、人にプリントされている。脈絡もなくあらわれる「夢」という精神世界の現象で、それを知ることができます。

意識でのコントロールが消える睡眠の間に、「下記憶」と言われるものがあらわれる。

覚醒(かくせい)した意識が「下記憶」に支配されるとは言えない。脳の奥の下記憶を、制御することができるのは、「知る」という、精神の力です。

言葉にして、真正面からその下記憶を知る。最初は精神は、無意識下の記憶を呼び覚まさせると、パニックを起こす。夢のときの恐怖を思い起こせば、その恐怖の強さを想像できます。パニックとは、覚醒した意識が統御できない「なにものか」に支配された状態です。

しかし呼び起こす回数が増えると、人は次第にそれに慣れる。覚醒した意識が、無意識下の記憶をコントロールできるようになる。自分自身でおこなう、自己の救済です。その方法しかない。

無条件の承認を得られなかったという原体験

多くの人は、母なるものから、無条件の承認を得られたという感覚をもっている。しかしみんながそうではない。母から認められなかったという原体験を持つひと、あるいは、なんらかの原因でそう誤解したひとはどうなるのか? 

承認のおねだりという行動】
最も基本的な「承認をうけるという欲望」を得るために、母という他者に「承認」を「おねだり」をする。

ところが、おねだりをして得られた承認は、本当の承認ではないということは分かっている。その時はどうするのか?

得られないとわかっている承認を、別の形をとって、「おねだり」する傾向が生じる。
(ここでいう母も、「母なるもの」と理解していただきたい)

▼嗜癖化

<自分の欲求や欲望を読みとってもらえないという「寂しさ」がつきまとうために、「おねだり」そのものが嗜癖化(しへきか)します:『母の承認ということ』斎藤学>
http://www.iff.co.jp/frame/ssworld.html

「嗜癖化(しへきか)」は過食やその逆の拒食、アルコール依存など、(ブランド依存も同じ)、行為の目的が消えてしまい、行為そのものが目的になって、常に、満たされない状態。性のフェティッシュと類似の概念ですね。

自分の存在を無条件で認めてもらえないとき、または本当の欲求を読みとってもらえないとき、「寂しさ」が襲うのは分かります。

しかし、大人になれば、これは稀なことではない。日々直面すると言っていいでしょう。普通は、大人は、否認に耐える。むしろ見返してやろうというエネルギーに転じることも多い。
大人は、「社会」と戦っている。

幼児】
しかし幼児や子供にとって、社会の全体の大部分は、父であり母です。それが、全体と言ってもいい。そこで承認が得られないと感じると、これは、社会全体が、自分に向かって「否定」をつきつけたに等しい。

オトナ】
また「大人」のケースでも、自分のこころ(意識された部分は少なく、夢に現れるような無意識の部分)で、本当に大切である、この人に認めてもらいたいという人に、認められなかったときは、幼児や子供と同じように、社会全体が自分に向かって「否定」をつきつけたと感じることになる。

この点では、子供も大人も共通です。

渡邊泰子の場合は、かけがえがなく大切な人は<理想化された父>でした。

この時、奇矯な行動にまでいく、「嗜癖(しへき)」という行動での表現が始まると精神医学は仮説を立てます。

すべての人がそうなるのではない。渡邊泰子のような、過度の潔癖や、瑣末なことへの完全主義の人がそうなりやすい傾向をもつといわれます。

嗜癖は、普通は無意味に見えること、あるいはしてはいけないとされることに、強く執着してやめることができない状態です。

自己愛性憤怒(ふんぬ)

更に、いつまでも満足がないという「貪欲(どんよく)」、この貪欲は決して満たされない。
(なぜこの貪欲が生じるのか?はあとで解きます)

そうなると、今度は、満たしてくれない他者への「恨(うら)み」に転じる。恨みが嵩(こう)じると「自己愛性の憤怒(ふんぬ)」と呼ばれる暴発を起こすことがある。

「自己愛性憤怒」は、周囲や、周囲の弱いものに対する攻撃的な態度になる。
子どもの親への暴力、親の子への暴力、夫の妻への暴力などの、根源にある原因とされているものです。

じゃこの自己愛とはなにかを、解かなければならない。現代人に多く見られる自己愛とはなにか?



自己愛の構造

ここでいう「自己愛」とはナルシシズムの自己愛とは違って、幼児のころ親が設定した枠組みを抜けて、そこから「自分自身で作った自己」になることができず、その枠にとどまった人を言います。

理想化された、攻撃的な自己

自分で作り上げた本当の自己ではない。「母が理想とした私」にとらわれている。人に対する要求は、要求する自分が無条件に正しいという前提がなければならない。仮に自分も同程度のダメな人間と認識していれば、他者に向かった憤怒の暴発は起らない。

自己愛の場合、当人も、実際の自己はダメな自分であると認めている。しかし、母が設定した私は、母の要求による理想的なものである。その理想的な自己が、自己愛の人には住みついてる。住みついた度合いがひどいひとを、自己愛という。

他者への憤怒

理想化された自己をもつと、自分はいつも無条件に正しいとなる。その理想化された自己が、周囲の人をダメな人と見て、許せないと見るのです。
このことが嵩じると、周囲の他者へのひどい攻撃、つまり自己愛性憤怒が起る。

年齢を重ねても親離れができないアダルト・チルドレンといわれるものも、自己愛と同じ構造ですね。男女に関わらず現代人に多い。

幻想の自己愛からの脱出

人間が自立するということは、母なるもの、父なるものが設定した自己の枠組みを、自分で超えることです。

これが、自己の確立といわれるものです。多くの人が、自己愛の部分を抱えながらも、自分の意志で、自己愛を乗り越える。

自己愛とは、理想化され自分に住みつかれていて、他者を愛すること、つまり無条件の承認ができないことです。

愛というコトバはいくらでも使えても、その愛は、自己愛つまり他者への要求にすぎない。このとき愛は、受容するものでなく要求になる。自己愛の世界にどどまる限り、真正の恋愛はない。



精神世界の「対人恐怖」

さらに進みます。(1)承認のおねだり(嗜癖)や、(2)自己愛性憤怒にも至らないときは、どうなるのか?

(1)親から根底的な部分で承認を受けなかったという「恨(うら)み」を抱えつつ、
(2)「承認のおねだり(嗜癖)」もできず、
「自己愛性憤怒(暴力)」の暴発もおこさないで、
(3)自己の内部にとどまっているのが、「対人恐怖」と言われます。

最近の「ひきこもり」も、その1つのあらわれですね。

対人恐怖は、他人に承認されることを求めながら、認められるとき生じる「他人からの侵入」や「見られる不安」、つまり他人からの評価を恐れて、内面を隠し、自分にひきこもることです。

みんな程度の差こそあれ、こうした「対人恐怖」を抱えています。

自己防衛

他者からの評価は、必ず否定的なものであるはずだと思うところから、対人恐怖が生じます。程度の差こそあれ、われわれが、自分を守るときにとる普通の態度です。

昔の偉人、芸術家、大きな事業を作った企業経営者にも多い。
彼らが対人恐怖を克服したのは、
(1)「内的信念に基づく執念」と、
(2)「努力する習慣」によってです。

彼らは、意志の力で、将来を強烈に見つめた。

評価されることの自信のなさは、周囲から見れば、逆に「異常にプライドが高く」見えることがある。

つまり、承認をおねだりできないくらい自尊心が高く見える。容易に人に妥協しない性格にも見える。人や仲間から一定の距離をとって、無関心を装うのです。言いかえれば、孤立です。

渡邊泰子の不器用さ

彼女は、学校でも会社でも、異常な潔癖症(嗜癖)という印象をあたえ、対人関係は不器用だった。男友達とは、常に、距離をとっていた。

渡邊泰子は、他者との相互侵入が必要な、「親密な関係」になれなかった。相互侵入すると、自分が否定されるかもしれないとの恐怖があった。

一方、売春での性交は、自ら大量に求めた。これは、相互侵入の親密な性交ではなく、お金でやり取りする、経済行為だった。

彼女にとって、お金とは、欲しいモノを買うための手段ではなく、それ自体が目的と価値になった象徴的なもの。(第4部)

1万円札への異常な執着。小銭がすこしでも貯まると、コインは千円札に、千円札は1万円札に逆両替していた。

親密性の獲得に失敗すると

対人恐怖者は、斎藤学氏によれば「過度のな嗜癖(しへき)」という行動を示し、それを周囲にあからさまに見せることで、相手からの裏返った、自分の存在の承認を求めるといいます。

「過度の仕事依存」、「異常な几帳面(きちょうめん)さ」、「自己に否定的な厳しさ」、「潔癖(けっぺき)症」、「過食症」も嗜癖(しへき)のあらわれとされる。渡邊泰子が、父が死んだ20歳の時とそれ以降にかかった「拒食症」も同じです。

プライドが高く「自分を丸ごと無条件に認めてくれ」と言えないために、「こだわり」という別の表現をとる。しかし、評価されるような「相互侵入」からは逃げる。

そうした嗜癖性をもった渡邊泰子が、浮浪者と思えるような汚い身なりの男と、ガリガリに痩(や)せた身体で、ところかまわず、時には駐車場の陰や路上で、最後は3000円を対価に、性交することを自ら求めたのはなぜか?

自己評価

彼女は気鋭の経済学者です。経済学者なら価値評価が金額であることは常識。渡邊泰子は、自分の肉体が備える性器の提供に安い価格をつけた。自己の存在確認、評価確認の行為です。

「自己処罰」の儀式か? このとき、肉体と性器を、時には労務者風の見知らぬ男に晒(さらす)している渡邊泰子を処罰していたのは、渡邊泰子の、別のこころに内化した父(インナー・ファザー)だったのか?

渡邊泰子の別の自己は、父になりたかったのか?

しかし、売春では、性器を相手に提供することあっても、そうでない時のセックスのような、親密性の相互侵入はないのか?

モノは、部分にわけることができる。生きた人間は全体です。性器だけ使えば、性交ができるのではないと思います。

丁寧なコトバ、上品な物腰、ハデな化粧、眼差し、痩せた体、脚、手、指、人格、経済の知識、思考、こうした渡邊泰子のすべては分離はできない。

売春での性交であっても、なんらかの精神的な「相互侵入」はあると思う。そこで、渡邊泰子には思考停止があったのか?

売春での親密さの交換

対価としてのお金のやり取りがあれば、泰子が恐怖したであろう「相互侵入」を防御できたのか?

謎のままに留まります。しかし売春であれ、見知らない男と、肌を合わせることに、渡邊泰子が一瞬の幸せと、裏返った充実を感じていたと見るほうが自然でしょうね。

そうして、お金をもらうこと(事前の契約)で、人格的な親密の関係、つまり、相互侵入を防止したということができるでしょう。
お金をやりとりするのは経済行為です。経済行為は交換であるが、相互侵入ではない。自律した個として他の個と、交換を行なう。

売春は相手に射精させること、その対価として契約したお金を受け取ることで成立する商行為です。ただしそうは言っても性交です。そこに、親密さの相互侵入がないとは言えない。

女性がもし付き合っている男性が買春をしたことがわかったら、とてもいやな気分になる理由は、それが純粋な経済行為(モノの買物行動)ではなく、親密さの交換があることを知っているからでしょう。

一方で男性も、付き合っている女性が売春したことを知ったら、嫌悪を感じる理由は、売春で親密さの交換があることを知っているからです。

その時は、男女とも、その恋愛といわれるものの関係は、他の人でも代替が効くものに見えるのです。つまり、自分が必要とされていないと感じる。

▼泰子の年配客の選択の理由

渡邊泰子が選んだのは、年齢が遥かに離れた年配客が多かったと言います。以下は、憶測に留まります。

<理想化されたインナーファザーである父:自分を認めてくれない父>に対して、無意識のこころの上では、性交という相互承認を求めていた。

性交は、第2部で解いたように、女が男を逆転して支配する行為でもあります。

そこで、代理的な父を売春の相手に選んだ。ニセモノですから、醒めた意識では、満足は得られない。したがって、渇望が続き、7年もの勤勉な自虐的に見える売春が続いた。

この解釈は普通によく見られる解釈ですね。なにか、しっくりしない感じを受けます。じゃまだなにがあるのか? 先に進みます。

親密な相互進入の忌避(きひ)

【承認の相互関係】

われわれは「自分を承認してくれという自己主張」と、「他人が自分の中に侵入する」ということのバランスをとって、生きているという。

他人から「評価」されるということは、他人からの侵入に耐えること、そして相手のなかに侵入するという相互の「親密な関係」を築くことでもある。この両者の間で、普通は、バランスをとっていく。親しい対人関係とは、そうして築かれる。「親密さ」は相互の関係です。

しかし、評価されるのは怖い。軽いものはテストの評価でも経験しますね。テストは全人格、自己の全存在には関わらないし、何回もあるから、慣れがあります。しかし、これがもし1回限りで、それで決まるとなるとこれは怖い。さらに、それが、自分にとってかけがえのない大切な人からの評価だと、その怖さの感じが、想像できますね。

▼評価への恐れ

「嗜癖」の個性が作られた人は、評価は否定であるとの体験と、否定の心理的ショックから、「相互侵入」の「親密な関係」に入れない。これは、当人にとっては絶え難い寂(さび)しさになる。

親密な関係を求める欲望が、強烈過ぎるゆえに、逆に人を遠ざける。

そして、その表現は、象徴的ななにかへの、強い執着になって表現される。声にならない心の叫び。「私をどこかで認めて・・・」

絶え難い寂しさのからの表現

精神医学は、親密さの相互侵入に入れず、絶えがたい寂しさがあるとき、自己をおとしめる行動をとることがあるといいます。

自分を卑しめる。認めてもらいたい人に対して、奴隷のような態度をとる屈従の人生という選択です。性的行為では昔から「マゾヒズム」といわれるものです。

売春で、お金を目的にし、男の欲望に奉仕する奴隷のように客から扱われること、これが渡邊泰子が選んだ自己表現でした。お金の奴隷になった状態を、見せた。

他人の視線に対して、モノになること

<他人の承認を求めながら、「おねだり」もできないままに、それを断念している。人としての承認を、相手に求める代りに、相手の欲望にひたすら奉仕し、そうすることで、「他人にとっての奴隷(あるいはロボットというモノ)の役割を取り続けているのです:斎藤学>

渡邊泰子はなじみの客には、丁寧な楷書で書かれたクリスマスカードやバースディカードを送っている。単に、ロボットのように、奉仕したのではない。
そこには、なにか売春という経済社会的な行為を超えた「コミュニケーション」を求める哀切があるのです。

次は、理想的には、お互いを認めた相互侵入であり、もっとも深い関係に至りうるものとされている「性交」に移ります。すべての性交ではない。理想化された性交であると考えてください。もっと気軽な性交もあるからです。

自己の境界侵犯としての性交

▼性交


<セックスする二人は、陶酔のなかでそれぞれの情緒的境界を破り、肉体において境界侵犯をゆるし合います。独立した個人にとっては危険な状態に入るということに意味があり、だからこそ人間関係のなかでも、特異で重要なものとされているのです>

【性交に必要な相互承認】
<したがってこれが、相互承認という前提なしに行われるとそれは加害と被害の関係になり、被害者は肉体だけでなく、心理的にもキズを受けます。そしてトラウマは被害者のその後の人生に深刻な影響を及ぼします>

性交はお互いの境界侵犯。果たしてそこまでの意識や認識が、交わる相互にあるか? 普通の意識では、疑問ですね。じゃ、なにか?

拘束としての性交

<セックスをともなうような関係では、愛は拘束に変わりやすくなります。伝統的なセックス観のなかでは、男が「しかけ手」、女が「受け手」のように考えられてきました。まるで女性は性的欲望を持たないかのように、そしてひとたび性行為が完了すると、しかけた男が女に責任を持つのが当然と考える傾向がありました。これはまるで経済行為です>

少壮の「経済」学者渡邊泰子は「ねぇ、セックスしましょう、お茶しません」と男に声をかけていた。追いかけることもあった。「しかけ手」は泰子だった。そして、契約したお金を、厳密に要求した。
境界侵犯を許しあう親密の性交ではない。交換行為としての性行為。

そこで、渡邊泰子は、おそらく敬愛する父から激しく処罰される客体(モノ)としての自己を意識していたのだろうか? これが、一瞬の擬似的な行為であることは、渡邊泰子は承知しているはずです。

彼女が全存在を賭けて、自分が意識せず、真に求めているものはいつまでたっても、何千人の客をとっても得られない。自己処罰はニセの代理行為ですから、満足は得られず、来る日も来る日も、処罰の儀式が続く。

これが、嗜癖(しへき)で、こころのバランスをつよく崩した状態でしょうね。過食症も、食べても食べても満足が得られない。嘔吐(おうと)しながら痩せ、食べ続ける。凄惨(せいさん)な行為です。



■認められるということ

子供も親も現代人の渇望の根源には、「認められることという他人志向」がある。

これは、表面はともかく、こころの奥で、自分自身の価値に、疑いを抱いていることから生じているだろうと思われます。

渡部泰子のケースは、おそらく、20歳の時ガンでなくなった父が、彼女の内部では内的な父に昇華され、その父の期待に沿えなかったことが、理想化された「父」を作った。

そうは思っても陰惨(いんさん)です。渡邊泰子が自分の意志で選んだ、永遠に、幸福にも、満足にも至れない、理想化された父による処罰の場所と、売春の相手。

そして円山町の安アパートで彼女は絞殺され、われわれに、行動で表現したメッセージを残した。彼女がこころの底かから求めた<わたしを、どこかで認めて・・・>という希求は、ついに得られなかったように思えるのです。

以上で、渡邊泰子を素材にした精神のドラマの解釈を、哀切をこめて終ります。

大切なメッセージ

ここで大切なことは、「知」はパワーだと認識することです。自分が、なにものかに動かされているという自己喪失の状態は、だれでも経験します。
しかし、その自己喪失の状態、とくにその構造を知ることが、出口ないきつさからの、解放をもたらす唯一の方法と言ってよいのです。

次に、「愛と幸福」の構造を解きましょう。
どうか、ゆっくりとコトバをたどって下さい。
イマジネーションで映像を描きながら・・・



愛と幸福の原型

過疎の村の映像

ある日曜日の深夜、午前2時頃だったか、NHKのテレビで、冬は6メートルの雪に埋もれる過疎の山村のルポを放映していた。

村にはいちばん多い時は、30世帯があった。人は村を離れ、または老いて死亡し、人口はたった7名。
廃屋、わずかな農地、山林、残された7人の老人の生活です。

この映像に、なにかこころ惹(ひ)かれるものがあった。
原稿書きの手をとめ、お茶を淹れぼんやりと眺めていた。

折れたツルを、バンソウコウのようなもので巻いて補強したメガネをかけて、痩せた、髪の薄い農夫と、視聴覚に障害を持つ女性との、普通の目ではとても貧しく見える農家での同居。
私が見たとき、テレビはちょうどその障害者の同居妻が、不器用に食事の支度をする場面を写していた。

夫は50代台前半だろうか、同居妻は50台後半か、2人とも年齢以上にふけて見えたが。

大晦日

視覚が不自由な妻が、大晦日に、正月用のお節料理を作っている。

ごぼう、こんにゃく、ジャガイモと鶏肉の煮物。アルミフォイルを敷き、時間をかけて、彩(いろど)りをよくと配慮しながら、丁寧に、お重にいれるが、手の麻痺で震えるため、時々、テーブルにこぼれる。

土間で、もち米を蒸して捏(こ)ね、隣から手伝いに来た中年の男と夫が、ひびが入った臼で餅をつく。夫は同居妻に杵(きね)を持たせ、手を添えながら振り上げた杵(きね)をおろすが、すぐ臼の枠にあててしまう。
ついた餅をちぎり、粉をつけて、3人で丸める。

戸籍

二人は籍をいれたいと望んでいる。親戚や遠くに住む子供は、障害者はあとでいろいろと大変だからと反対している。

ある日籍をいれるという意思の手紙を書き、過疎の村から遠い町の役場まで行き、婚姻届を出す。受付の中年女性は、微笑んで、おめでとうございますと言った。

披露宴

廃屋のように荒れた公民館で、披露宴が開かれた。
一升瓶から赤いぶどう酒が、グラスに注がれる。ビニールの白いレースを敷いた長机の上に盛られた料理は、畑で採れた野菜類を持ち寄って、村の主婦が作った。

6人の老いたひとたちは、あたらしい仲間が増えたことを祝っていた。

障害

<障害者はいないんです。社会と人間の間に、障害がある。社会のほうに、障害があるんです> 社会に抗議するようではなく、みんなの理解の方法が、違っていると口調だった。

どこかに、都会的な雰囲気があるこの夫の、コトバを聞いた時、私は、開眼させられた思いだった。

そう言う夫の目には、気品ある、優しい光が感じられた。
すいぶん昔の小学校の教師に、たまに見かけたことがあるような本物の品性と知性のように感じた。

労働

山間の、狭いたまねぎ畑で雑草をむしる。新妻にとっては、最初の畑仕事だった。夫は、妻の手をとって、妻の手話を通訳する。土が深く皺に刻まれた、労働の手。

労働を休み、二人は並んで腰掛けた。

夫はゆっくりしゃべりながら、妻の手を握り手話で伝えた。
<これから、ふたりで、ずっといっしょに、くらそう>

妻も、身体を大きく揺らしながら、ゆっくり手話で答えた。

<オタガイニ、アイテノコトヲ、オモッテ、タスケアッテ、イッショノ、セイカツガ、ズット、デキレルコトガ、シアワセデス>

視聴覚障害の妻の声は、私の耳には、ラジオの雑音を含んだような、意味をなさない不思議な音だった。

▼価値の序列の不在

都市化した現代社会が、「価値の序列」に並べるようなものは、村人は、なにも、もってない。(⇒第4部

むしろその逆の、老い、貧困、過疎、廃屋、厳しい自然と生活、刻一刻と迫る体力の衰え、障害、容赦のない病、間近な死がある。

すべて都市では最低ランクの否定的な価値とされるものである。

私は、物質的な豊かさのなかに幸せはなく、貧しさの中にあるというステレオタイプ(通俗類型論的)なことを言っているのではない。

当たり前のことだが、物質的な豊かさのほうが、貧しさより選択肢が多く、幸せであることは、決まりきったこと。多くの貧困は、不幸と人への恨みや、社会への憎悪を生むことが多い。

幻影の共同体

昔のムラにあったような生活共同体、ありのままを認めることができる相互承認があるこころの拠り所、そうしたものが、次第に消えていったのが現代だった、というのは通俗論でしょう。

私には、それは、嘘っぽく思える。むしろ、単に理想化された過去でしょう。

われわれの世代の多くは、ムラをしらない。戦前のムラにそうした温かい生活共同体があったとは思えない。

歴史が教えるところでは、子供の間引き、貧困ゆえの女子の人身売買、肉体をさいなむ苛酷な農作業があった。人生50年と言われ、平均寿命は短かった。

都市の生活は、田舎の生活より、よほどましだった。理想化されたような、生活共同体のムラはない。帰ることも、できない。もし帰れば、その現実は、耐えられない生活。私も、読者の方も過疎の村に生活すれば幸せになることは、ない。むしろ不幸が襲うでしょう。

なぜか?過疎の村の生活など、現代のわれわれには普通はとても受容できないからです。
しかし、物質的なことではなく<こころ>はどうか?

ここでは、<こころの問題>に集中しましょう。

存在のありのままを認めるということ

ルポルタージュの撮影期間に、別の世帯の70台後半の主婦が、風呂に入っている最中に、誰に見取られることもなく心臓麻痺で突然なくなった。

親戚と村の人々が、農道をとぼとぼ歩く葬列を、テレビは映した。静かな葬式であった。
裏山の真新しい墓に、野辺で刈り取った草花を添え、80代後半の夫が言った。

<ほんとうに心残りなのは、長い間一緒に苦労してきた家内を、看取れなかったことです。町の子供は、一緒に住もうと言ってくれますが、私は、ずっと昔から先祖や父や母が生活をし、妻がいて、色んな想い出があるこの家を、離れられません>

この過疎の村の人たちは、「現在のありのまま」を認めていた。
辛い病や死が、身近に迫っていることは、みんな知っている。

宿命の受容、運命の慫慂(しょうよう)に思えた。その宿命に対して、ジタバタしない。黙って、静かに受け入れる。焦燥はない。欲望に身を焦がすこともない。ただ、目の前のことを静かに受け入れる。
だれにも抗議しない。渇望もない。

過疎の村に、幸福と愛と共同体の原型があるように思えた。もちろん、映像が切り捨てた現実はあるにせよ。人口7人の過疎の村には、「ありのまま」を承認する人達が生きていた。

その時、私には貧しさは、決して不幸ではない。<貧しさを不幸に思うことが不幸>だと思えた。

われわれの中の自己は、幸福や愛に、身の周りのモノに、衣服に、容姿に、世間が作ったランク付けをしているのではないか?

過疎の村には、価値のランク付けがなかった。ありのままがあった。

相互承認

念願だった籍をいれた二人は、愛というコトバなんかは使わない。
視聴覚障害の妻は<おたがいに相手のことを思って、助け合って、ずっと一緒に暮らすことが幸せです>といった。
生きていることが幸せになり得る。

これこそ、100万語を費やすより貴重な価値を伝える真正の愛ではないか?と思えた。私は、とても有意義な時間を過ごしたことになる。

憑依された自己

われわれは、余分なことに気をとられすぎていて、いつも焦燥感を感じているのではないか。幸福はいたるところにある。

至る所にある幸福が見えないのは、「世間が作った価値や幸福、豊かさの序列、容姿の序列」でモノを、人を、そして自分を見ているのではないか?

その時の「自己」は、自己ではない。世間の価値、世俗的な価値に憑依(ひょうい)された、取り付かれた自己ではないか。

あなたの自己は、いつまでも、それでいいのか?

愛のフォルム

ある読者の方から、渡邊泰子のテーマで書いているとき、「本当の愛」ってどんなものか、解いて欲しいという宿題をもらっていたのです。

どう表現するか、これは「難題」と思っていた。手垢や余分なものにまみれすぎていて、わけがわからないものになっているからです。しかし、この過疎の村のわずか1時間くらいの映像で得られたと思えた。

これを見る前は、愛のフォルムを端的に説明することは、できなかった。

「愛」は、相手に向かった条件つきのものではない。「ありのままの人間の存在を、まるごと認める」ものであろう。

そこからしか<こころ>が求める「相互承認」は生まれない。

<障害者がいるのではなく、社会と人間の間に障害がある>、このコトバも私の胸に深く刻まれたものになった。

「愛」の概念にせよ、なににせよ、目を瞠(みひら)いてくれるメンター(Mentor:導師)は至る所にいる。
ホンモノは、探す気になればいたるところにある。

探しているものが、遠くにあるとあなたはなぜ思う?
今の生活はニセモノですか? 自分はニセモノですか?



晴れの写真

二人は、村の公民館の別の部屋で、写真を撮るために晴れ着に着替える。
村の主婦が、花嫁の唇に紅を塗り、お化粧をしている。

田舎育ちの老いた新婦は、純白のウエディングドレスを着せられ、新郎はモーニング姿になった。ワイシャツの袖の長さが、合わない。記念の写真をとるための晴れ着。

しかし、純白は日焼けした肌に、残酷に似合わない。

写真屋が来て、写真を撮る。微笑んで、と言う。
新婦は満面に喜びの表情を示すが、顔の麻痺のため、歪んでいるように見える。

皺深い皮膚に、おしろいがのらず、まだらになっている。
新郎は、新婦を導くように背に手をかけ、微笑む。
写真は、酷薄に、2人の生きた50年以上の歴史と年齢を写していた。

私には、こんなに美しい写真はないように、思えた。
「こころのつながり」が、はっきりと写っていた。
二人のこれまでの歴史を想うと、目の前のテレビの映像が、プールの中から眺めるように、歪んだ。

私は、脳裏に焼きついた、この写真を、忘れない。

▼祝婚歌

二人が睦まじくいるためには

立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことをいうときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
ただしくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆっくりと ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で
風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸があつくなるのか

黙っていても
ふたりにはわかるのであってほしい

                  (歌人:吉野弘)
http://www1.odn.ne.jp/~cax65500/hirosi.htm

詩で、カバーできるかどうか、
どんなにことばを選んでも、やはり想いがもれる。
ことばが選べないときは、沈黙するしかない。

しかしそれでも、愛と幸福、充実をもとめ、世界の61億人が、とてもたくさんのことばや視線を、今日も、明日も交わす。

愛や幸福や充実は、今日、いたることにある。遠い世界のものではない。私は、そう思っています。

身の回りを
ていねいに
こころをこめて
やさしく
他者があたえた枠にとらわれず
ほんとうの自分の目で
見つめること

焦燥を消して
しずかに
こころと対話しながら

(随想 こころの闇 雑感:おわり)

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copyright : Systems Research Ltd. Chief Consultant 吉田繁治