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共同体組織の二重規範:
         この国では、戦後、国家論はタブーで、
         市民論は未熟だった。
         そのため、官僚組織が上位目的を持ち得ていないこと
         が根底の問題になってきた。


※友人、知人、同僚、部下、上司、取引先への転送は自由です。
<<あなたと、チームの、知識とスキルのブラッシュアップを>>

2001年8月13日(Vol.64):経済・金融・文化シリーズ

共同体組織の二重規範(3):国家論がタブーだったことの問題

ビジネス知識源:良質な経営・IT・ビジネス知識の提供を目標に
  Systems Research Ltd. chief consultant吉田繁治
 著者へのひとことメール⇒  yoshida@cool-knowledge.com
申込・解除・バックナンバー http://www.cool-knowledge.com


こんにちは、吉田繁治です。本シリーズは<共同体組織の二重規範>を基調低音にして、第1部では東大法学部キャリア官僚の意識構造を、第2部では日銀の金融官僚の論理を解きました。

【今回の趣意】

今日は、すこし重い問題でしょうか。日本人が長い間ふたをしている「国家」、「国体」、「軍隊」、「国益」、「市民」という課題。

(1)省庁は、省庁のより上位のものである、国家に属する。
(2)省庁が行う国務は、国益(=民主国家では市民の利益=公益)を目的にするはずです。
(3)軍隊が守るべきは、国家のメンバーである市民の生命と財産です。

こうした当たり前のことが、ねじまがった「神学論争」になるのが、戦後日本ですね。なぜそうなったのか、その根源に迫ります。

行政の目的を解くには、以上のことを解く必要がある。本論を通じ、日本という国家の「グランド・デザイン」にアクセスできる基石をつくることが目標です。

そう言えば、私の仕事は、システムのグランド・デザイナー(笑)。国家組織もシステムも、それぞれが「相互に依存関係を持つ系」で、まるでおなじです。
システム論風に見ると、日本国家は、国家の各部署の機能目的の設定と、相互関係に問題をかかえている。

部分機能である省庁からみて、より上位のもの(つまり国家)の定義と全体目的の定義がないと、あるべき機能の設計はできない。



<共同体組織の二重規範(3):国家論がタブーだったことの問題>

【目次】

1.行政組織の正統性の根拠
2.この国の歪んだ国家論の源
3.戦争<犯罪>の総括方法
4.そして自衛隊の存在は、神学論争
5.国家という共同体に対してねじれた態度をとってきた日本人
6.国益論、市民益論のない官僚組織の問題



1.行政組織の正統性の根拠

官僚の組織と、行政の目的をしめすには、「論理的に」国家とは何かを解かなければならない。官僚組織は、国家の機関だからです。

論にあたって、こうしたあたりまえのことを再確認する必要があるほど、この国の国家論はねじれて、ゆがんでいる。
国家の問題を、うっちゃってきたためです。

官僚組織の正統性は?

この国では、戦後、「国家と国益、及び市民益」を論じなかった。

【結果】
国務の当事者である官僚も、市民益のために業務をやっているという日常意識があるのか疑わしい。
「省庁あって国家なし」と言われる状態が、ずっと続いている。

外務省は、諸外国に対し日本の国益を明らかにできないため、ODAでの多額の国際援助をちらつかせた、お旦那パーティー屋に堕落しています。

【本来】
官僚の業務は、官僚が属する省庁の、より上位の共同体の目的、つまり、国家と国益(市民益)に奉じるものでなければならない。

会社に属する社員が、どの部門でも会社の上位目的の実現のための活動を行い、その作業成果が、報酬をもらう根拠になるのとおなじです。会社も、人為的な「結社」ですね。

【公務のゴールは?】
「公務」員を雇用する「国家」が何であり、「国益」が何であるかについて合意がないままなら、公務は何を「上位目的」として遂行するべきかという根本的なところでゴールを見失う。

これは、省庁の存在の、正統性の根拠があやふやであることも意味します。

結果は、<省益あって国益なし>という、組織のカオスが続くことになる。省庁のカオスが、現在、官僚全体の問題になって露呈しています。

国家と市民の、お互いの義務の交換関係(=契約)

国家が、税を徴収する強制権をもてる理由は、
(1)税を使った国務を行う官僚の仕事の目的が、
(2)納税の義務をもつ市民の利益への奉仕であるからです。
これが民主国家の国家と、納税者たる市民の基本契約でしょう。

戦後復興までは、貧困からの脱出(=輸出振興による経済成長)という、行政と国民が合意できる共通目的があった。

ところが、経済で一定水準にきた1980年代以降、「合意できる共通目的の設定」はできていない。キャアリア官僚には、上位の目的への意識が、消えています。

根の問題は、「敗戦」後の歴史は、国家論に蓋(ふた)をしたままで、来ていることです。
省庁が属する上位のものが、実体的に、空(くう)になっている。

そのため、行政は、
(1)とりあえずのことは年度予算でやるが、上位目的を失い、
(2)経済成長という共通目標がなくなった70年代以降、約30年も、際限がない自己拡張が起こしたと言えるのです。

加えて、バブル経済以降は、「億」という金額の日常化と風俗化で、マネーを前にしたときの誇りや、自尊の精神の、重要な部分を犯されている。ド・ゴール将軍が言ったエコノミック・アニマルは、進化してマネー・アニマルになった。

子供たちの心の荒廃は、90年代から、激しくなっている。
子供は論理は言わない。「時代のまやかし」を感知し、それを生きる。まやかしの根幹にあるのが、国家論です。

国家という枠組み

なぜ、この国では、国家論が複雑にゆがんできたのか?

この問題を解きます。政府、財務省、日銀、自治体の官僚組織も、要は国務を執行する機関です。企業も、当然、国家の枠組みの中にある。

グローバル化経済とは言っても、グローバル政府は、まだどこにもない。国連は、各国家にとって下部機構であり、手続き上の調整機関にすぎない。
実際にあるのは、独自の法と文化をもつ米国、中国、ロシア、ドイツ、英国、日本・・・です。

税の体系、法、行政、軍隊、警察を通じ、われわれの仕事や生活の、基本の枠組みになる共同体が、国家です。
世界は、国家の枠で、憲法・法・制度・文化・評価される行動様式が違う。

グローバル化でのナショナリズムの高まり

戦後55年も経過しているのに、中国、韓国、アジア諸国での、日本の歴史教科書へ非難の高まりと、それに対する日本人の情緒的反発は、何を意味するか?
内政干渉という、浅慮の判断停止で、はねつけることはできない。

グローバル経済のなかで、ナショナリズムが高まっていることを示すのです。7月のジェノバ・サミットでの死者を出した抗議行動も、反グローバリズムの潮流です。自由貿易を推進するWTOへの抗議行動も、年々激しくなっている。

情報処理の技術進歩が、国家間・各国内にデジタル・デバイドの格差を生み、グローバル経済は、勝者と敗者を分けるのは明白ですね。

反グローバリズムの風潮は、これから、ますます強くなる。
統一通貨ユーローは、破綻の可能性が強くなってきている。

そして、明後日は、「終戦」記念日の8月15日。
今年は、小泉首相の靖国神社参拝の問題で、ゆがんで矮小な、ねじれた国家論争に直面する。



■2.この国の歪んだ国家論の源

戦後55年、この国では、国家は論じてはいけない禁忌(タブー)だった。理由は、敗戦と占領体制、天皇の存在、そして、軍隊を論理的に解くことが必要だからです。

この3つに関する論は、55年の長く間、ゆがんでいます。

(1)敗戦と占領体制は、「主体を消した終戦」という用語に置きかえ、「全体主義」と「民主主義」の抗争に決着をつけていない。
(2)天皇は「象徴」とされ、その存在の意味は、曖昧模糊(あいまいもこ)としている。
(3)自衛隊は「軍隊」ではないというねじ曲がりがある。理由は、軍隊が守るべき、市民の利益と財産の議論への発展がないからです。

敗戦後の歴史の歪みから

日本は、敗戦で「無条件降伏」をした。これが、事実です。
無条件降伏は、国家主権の全部を、戦勝国にゆだねることです。

歴史教科書がどんなにカモフラージュをしても、(「終戦」では決してない)敗戦後の政体は、「米国の国益追求」による、米国GHQの占領だった。

日本では、樺太(サハリン)と北方4島をソ連に渡すことで米国が妥協し、スターリンのソ連が要求した北海道の分割はまぬがれた。
国体(=国家の主権者の規定と統治形態)を決める憲法は、GHQが起草し、国会に承認させた。

日本は無条件降伏を承諾し、国家の全権を占領軍に預けた。

自由主義を奉じる西側諸国は、ソ連の勢力拡張(世界革命)を阻止するため、円を安くした固定相場($1=360円)で、日本の輸出を受け入れ、輸出主導の経済発展を援助した。

日本の戦後の体制は、軍事大国である米ソの、ナショナル・インタレストを求めた国際戦略の、妥協の結果として生まれたものだった。
主体のない「終戦」による、自然的なものでも、国民の自発的な選択によるものでもない。

歴史に仮定はないが、仮に日本をスターリンのソ連が占領していたら、われわれは、全く別の、ソ連の衛星国の人生を歩んだことになった。

この国は、
(1)原爆の投下を受け、無条件降伏をし、
(2)敗戦による国家主権喪失から生じた占領という「現実」を、
(3)主体を消した、終戦による民主主義体制への転換という「仮想現実」にして、「偽装」して受け入れたのです。

トラウマに直面することを避け、判断を停止する心理です。以降、人々の意識の重要な部分で「論理の切断」が始まり、国家論はタブーになった。国家論がタブーであれば、行政も、国益または市民益の観点を持てない。

▼GHQの占領政策で残った二つの柱

国家主権の全権を握ったマッカーサー将軍は、以下の3つを残した。

【天皇】
天皇を処刑すれば、日本国民(特に帰還軍人)が反乱を起こし、共産主義が侵入することをGHQは恐れた。天皇は、戦争犯罪人にしない。

以降、天皇は行政権・選挙権・納税の義務・市民権はないが、日本人の国家としての統合の、アイマイさが残る「象徴」とされた。

【行政機構】
戦時経済の「国家総動員体制」の最高機関であった大蔵省を筆頭とする行政組織の多くに、GHQは手をつけなかった。

戦後の行政権の拡張の元は、ここにある。GHQは、占領政策をもっともよく推進できるのが行政機関であると見て、「有能な」官僚を、占領統治のために使った。

全体主義の解体のプロセスで、この国を、行政が統治するという暗黙の構造ができあがった。高級官僚の、国民を統治する意識の根はここにある。

【内閣の権限は制限した】
国会が選ぶ首相と内閣の権限は、制限した。首相の権限を強めれば、日本人は、西側世界に対し、なにをするかわからないと恐れたからです。

行政の最高機関である閣議の案件すら、次官会議から上がったものしか審議できない、官僚統治の内閣制度だった。

【そして、行政組織の共同体化】
省庁は、「国民からチェックを受けにくい実質権力」を得た。

そして、国債発行での公共事業が始まった1970年代以降、予算の分配と、どんどん増える郵貯を使った財投を通じ、共同体組織の二重規範の、自己拡張の行動様式をとってきた。

高級官僚には、今も、「俺達こそ国家だ」という自負がある。
これが「国益」と「市民益」というより、省庁の上位のものを明らかにしなかったための、行政の自己目的化です。



3.戦争<犯罪>の総括方法

GHQは、天皇と行政機構という、2つの柱になる国家運営の枠組みを残し、戦争は戦争犯罪人が起こしたもので、国民に罪はないとした。

国民は、米軍の占領による「全体主義」からの解放を多くが歓呼して受け入れた。米国は、占領収奪は行わず、むしろ経済の発展を支援する態度をとった。

戦争という国際紛争は、「犯罪」の範疇を超えるのだが

戦争は、市民法の規定の範疇(はんちゅう)を超える。戦争が犯罪なら、論理的に戦勝国の軍人も、殺人と略奪を犯した犯罪者になる。武力で勝てば犯罪人ではなく、負ければ犯罪人という論理は、成立しない。

戦勝国は、日本・ドイツ・イタリアを<悪の全体主義国>とし、連合軍諸国は、<善の民主主義国家>とした。

その全体主義の<悪>の犯罪人が、東条英機以下のA級戦犯(処刑)、ヒトラー(自殺)とナチス、イタリアのムッソリーニ(処刑)とされた。

ドイツは、国際社会に向かって、国民自身がナチスドイツを総括し、ナチスの残党を捕らえ、死刑にした。一方、日本では、戦犯とされた昭和の妖怪:岸信介は、その後、国会で選ばれ首相をつとめた。

東南アジア諸国や中国・韓国は、ことある毎に、戦前から続いているように見える軍国主義、全体主義の残滓(ざんし)を非難する。

ところが戦後の日本人は交戦権もなく、自衛隊は軍隊ではないとしているから、双方の主張は接点がなく、すれ違う。

<国体>という心情的な概念と、軍隊の位置付け

【天皇の軍隊】
戦前の軍隊は、「天皇が君臨する国体」を守る軍隊だった。統帥権(最高指揮権)は天皇がもち、国民の代表である首相には、軍の統帥権はなく、スタッフとして「参与」できるだけだった。

有史以来、日本人は、いまだに「市民を守る軍隊」をもった歴史も、軍隊の目的を定義したこともない。
このことが、軍に対する、国論を分割する。

【国体=国家の体制】
「国体」とは、天皇を国王とする立憲君主の体制を意味した。
軍隊は、天皇が「統帥権、最高指令権」をもつ、天皇の軍隊だった。

【国体と村落共同体の連結】
統治の上部構造である「国体」は、下部構造の「故郷のムラ」と連結された。

村の神社は、伊勢神宮を頂点にし、天皇を祀(まつ)る国家神道の、下部機構だった。こうして〔上部構造:国体=天皇=国家〕=〔下部構造:故郷の父母、妻、妹、弟〕がつながった。

そして国体と故郷を、外敵(鬼畜の国とされた米英)の支配から守るために、あるひとは天皇陛下万歳と叫び、多くは、お母さんと叫び、216万人の軍人が死んだ。

「国体」を守るために死ぬことは、男子の、最高の名誉とされた。
男子の本懐は、自分を超え超越的な価値を守るために、死ぬことだとされていた。果たして・・・死ぬことは、名誉か?

【国体=村落共同体=家(イエ)】
父母と家族、つまり〔家(イエ)〕への「忠と孝」が、人間の道の規範。その家の階層の頂点には、天皇家があった。
国体は、天皇家を最高家長とする家族だった。

【国体への忠誠】
「報国」、つまり、国の恩に報いることは、父母の恩、生活共同体である「村(ムラ)」の人々の恩に、報いることだとされていた。

生活共同体は、法や外部規範と融和できない、内部規範を持ちます。日本の「国体と家への忠孝の内部規範」からすれば、米英は、鬼畜の価値観をもつ国とされた。

共同体組織では、外部組織(米英)の価値観は、内部組織(日本)の価値観と対等の関係ではなく、無条件に、下等になる。

【他の共同体の価値観への非寛容】
ここで米英は、「人間」の世界ではない「鬼畜」の世界になるのです。

今でも、「あいつは人間ではない」という表現に、自分が属する共同体以外の価値観を許容しない「非寛容」が、この国には残っている。アジアの人々は、言葉の端々で、それを感知する。日本人は、何かが起これば集団で逆転すると見ている。

【心情論だから問答無用】
立憲君主の天皇と、全体主義の体制を守ること、つまり人工的な制度である国体を守ることが、なぜ、父母・弟・妹の「家」と、故郷の村落を守ることだったのか?

こうした素朴な問いを発すれば、論理的な答えはないから、問答無用で「非国民」とされた。

私は、理解の範囲を超えるとき、素朴に質問するくせがあります。
戦前なら、非国民と烙印をおされ、無事では済まなかったかもしれない。

論理の切断

【敗戦後の、論理の切断】
軍隊の統帥権をもっていたのが天皇ですから、その行政スタッフであった東条英機を戦争犯罪人とすると、論理的には、最高責任者の天皇も戦争犯罪人になります。

マッカーサーは、コーンパイプをくわえて厚木に降り、戦勝国の将軍としてあたりを睥睨(へいげい)した時、天皇を処刑するつもりだった。

天皇は、マッカーサーとの会見のためGHQ本部に向かうとき、側近に、もう戻って来ることはできないだろうと言って車をあとにした。

【人格への敬服】
<戦争の責任は、すべて、最高責任者の自分にある。私はその責任を負うためにここへ来た>
マッカーサーは、姿勢を正した小さな身体から発せられたこの言葉に、心を動かされ、昭和天皇に敬服したと回顧録で語っている。

【1枚の写真】
軍服で堂々と立ち、腰に手をあてたマッカーサーの横で、礼服の昭和天皇は首を伸ばし、気を付けの姿勢をしている。この、極度に緊張しているように見える写真が、何枚も撮られた当日の写真の中から一枚選ばれ、新聞の一面に掲載された。

写真を見て、日本は、本当にアメリカに敗けたんだと感じた日本人が多くいたという。武力のみではない。人間が姿勢をもって生きるとき必要な、自尊や誇りまで、負けたと思ったという。

戦後の、なにがなんでもアメリカに追いつくという経済成長の、動機付けになった写真です。私も、この写真を見るたびに、感慨を禁じえない。深く、揺り動かすものがある。

戦勝国で天皇処刑論が渦巻くなか、GHQの司令官マッカーサーは、軍と内閣の幹部を裁いた。それが<東京裁判>です。

徴兵された国民にも、天皇にも罪はない。悪いのは戦犯だとした。
ここで日本人は、心の深い部分で、論理に蓋をした。マッカーサーは、国民に免罪符を与えた。天皇への心情は、論理を超えていた。

マッカーサーは、この国の天皇は特殊だ。天皇を処刑すれば、日本国民がアパシーにおちいると判断した。高度な政治的判断だった。アパシーとは、心の支えを失い虚無におちいって、無謀な行動をとるということを意味します。

【アンビバレンツ】
多くの日本人は、心情と論理の間のアンビバレンツな亀裂を、心の奥に抱えることになった。天皇は象徴である、皇帝ではない。これは論理では理解できない。心情で感じるしかない。

【心情】
小泉首相は言う。<私は、純粋な「心情」として戦争犠牲者を祀る靖国神社に参拝する。そのことが何が悪いか、理解できない>
小泉首相の、もっとも好きな歌は、「同期の桜」だという。

<♪きさまと〜おれ〜と〜は〜ど〜うきのサクラ・・・>という、あれです。小泉純一郎氏は、直情的な性格をもつ。政治家は、もっと冷徹な、計算的理性をもつべきでしょう。

小泉首相は、心情が先行するリスクを抱えている。予測すれば、今は人気がある直情と頑固は、小泉政権の命取りになるはずです。人間はもっとも得意なことで、意見を聞き入れず慎重さを失い、失敗する。

リアルポリティクスでの靖国神社問題

【合祀】
靖国神社は、軍人と、死刑になったA級戦犯を合祀(ごうし)している。合祀とは、二つの異なる神をまつる神社のことを言っています。

(※戦死した軍人216万人と、東条英機(首相、陸軍大臣)、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村平太郎(以上陸軍大臣)、武藤章(陸軍中将)、広田弘毅(首相)、以上7名の、東京裁判で死刑になったA級戦犯を祀(まつ)る)

【中国、韓国、東南アジアの論理】
中国は、<侵略戦争は、戦争犯罪人が引き起こしたから、それに従った国民(中国では人民の概念)には罪はない>と外交的に結論づけた。

そして、戦争の被害の賠償を求めることを放棄した。
(ただし、日本は、援助で累計6兆円を費やしています)

日本人にも、戦争の清算が済んでいないという意識が残っているから、中国や韓国、アジアに対する態度は、国論を二分する。

中国や韓国、アジア諸国は、ドイツのヒトラーと同じ全体主義者の東条英機を祀る神社に、首相が参拝するのは、許すことはできない。もしヒトラーの墓に、ドイツ首相が公式に墓参したら、西欧諸国はどう言うか、と言う。

中国や韓国からそう言われれば、日本人の「心情」では違う、参拝は戦争の賛美ではないと言っても、他を納得させることができる「論理」ではないなから、モゴモゴと口ごもるしかない。

中国、韓国、東南アジアは、日本が、純粋な心情での追悼という意識なら、われわれの国の、犠牲者への追悼も含めるべきだと言う。中国と韓国は、特に、政権の正統性を強化するためにも、日本の過去の軍国主義を利用する。

リアル・ポリティクスの世界を、純粋な心情のみでは説得はできない。


■4.そして自衛隊の存在は、神学論争

【神学論争】
自衛隊は、当然、軍隊です。ところが山ほどの理由と、神学論争で、軍隊ではないという。不毛な論議を50年も延々と続け、現在にいたり、判然とさせていない。

【官軍から日本軍へ】
明治政府が作った軍隊は天皇の軍だった。

明治天皇の軍は、まず、江戸時代の幕藩体制を制圧する「官軍」だった。明治政府が国内を制圧して以降は、欧米の列強に対抗するための「日本軍」になった。維新の内戦に勝ち、国家を統一したからです。

【警察予備隊から自衛隊】
戦後は、マッカーサーの命令で、まず「警察予備隊」が組織された。米国は共産主義の拡張に対抗するための分担を、日本に求めた。
憲法違反との神学論争があり、その後名前を変え「自衛隊」になった。

【市民と軍隊の関係】
自衛隊は、西欧や米国的な「市民を守る軍隊」という意味付けはないままにきている。ここが、自衛隊の存在の根底にある、未解決の問題です。
(重要な「市民」の概念は、第4部で示します)

こうしたことの累積で、自衛隊、国家、天皇について、誰も理解できない、心情と論理が渾然一体となった神学論争が続く。


5.国家という共同体に対して、歪んだ態度をとってきた日本人

軍隊を内発的に位置付けができず、国家論にもふたをした戦後日本人にとっては、「会社」が共同体になった。これは戦後のみの現象です。戦前は、村落が生活共同体でした。

人間は、いつの時代も共同体を作り、個と共同体の関係のなかで自己を位置づけ、共同体のなかの相互関係に意味を見つけて生きる。

機能組織の存在理由

会社は、一般論(法理論)では、株主が所有権をもつ「機能組織」である結社です。

商法上での「社員」は、株を持つ人に限られる。株式会社は、原理上は利益が出せず「株主=社員」への配当ができなければ、機能を停止します。預金金利を払えない銀行が、成立しないのと同じです。

アングロサクソン資本主義の代表である米国では、利益を出せない会社は、すぐ、買収の対象になる。社員である株主は株を売り、次の株を買う。つまり、会社は機能組織であるという共通認識が強い。

「社員」に雇用される「従業員」は、数年で、機能組織である会社を渡り歩く。渡り歩くことは、渡り歩ける能力があるとみなされる感覚も、ある。

【キャリアと渡世】
キャリアとは、「渡り歩いた経歴」が元の意味です。
日本で、これに相当する用語は「渡世歴」でしょう。

日本では共同体たる「イエ」が没落したり、主君が死ねばそれに準じて死ぬことが「人の道」とされてきた。殉死(じゅんし)といいます。

国民的人気がある忠臣蔵は、主君の仇を果たし、切腹して殉死する物語。「一所」懸命の価値とされる。原義は、1ヵ所に命を懸(か)けることが尊い。

一方で、イエ(会社)を渡り歩くのは、「ヤクザな生き方」になる。この国では履歴書に多くの会社名があると、「キャリアの進歩」ではなく、問題を抱えているであろうヤクザな人とみなされる。

終身雇用制の崩壊は、渡世人の「ヤクザ」を増やす。(笑)

会社という機能組織の共同体化

【会社】
戦後の日本の会社は、老後を含め、生活のほぼ全部の面倒を見る生活共同体の色彩が強くなった。

国家という、より上位の共同体が消えたとき、その共同体の代役を果たしたのが「会社」という機能組織でした。

日本の会社は、機能組織でありつつ、西欧では国家が行う社会保証までを行った。再就職先への斡旋も含まれます。
社会保証の整備と、労働の流動化は遅れていて、いい会社に入らないと、最低生活も、老後も、キャリアも保証されない。

【源泉徴収制度で国家行政との直面がなかった】
納税の面でも、サラリーマンは、会社の経理が代行している源泉徴収制度に隠されて、「個の納税者たる市民」として国家に直面する意識はなかった。

有権者という言葉はあるが、「納税者:Tax Payer」という意識は薄い。国民の納税者意識のなさは、官僚の独走を許す。

西欧、米国では自分は納税者であるから、税の有効な使い方を要求でき、その使途について情報開示を請求できるという意識が強く、ある。

▼民間企業は共同体化しても、市民の利益への害はない

【企業の共同体化】
民間会社は、我が社はどこまでも従業員を守るという経営目標は、称賛される。生活共同体化することを会社の目標にできる。

コンピュータマーケットの60%〜70%を占め独占企業体であったIBMは、1980年代まで、終身雇用を旨(むね)としていた。IBMの社員は日本の会社のように社歌を歌った。その後Windowsの伸張とともに、シェアを失い、10万人以上(30%)の雇用をカットしましたが。

【優良企業のリストラのほうが、規模は大きい】
今、日本的経営の代表とされた松下電器が、10年以上前のIBMと同じポジションです。約30%の雇用削減を計画化している。官僚組織であったNTTも、通信単価下落でおよそ30%の雇用カットへ。
他の大企業も、軒並み、20%から30%の雇用カットを計画化。

不良債権処理でカットされる雇用より、実は今後、優良会社のリストラでの子会社移動、転職、または失業の規模が大きい。

【市場という調整機構】
ここでは、自由競争の市場が、調整を果たす。企業は、私的利益を追求することが本義です。アダム・スミスが明らかにした、見えざる市場の手が、会社利益の追求を公共の福利に変換してくれる。効率が悪く、顧客にとって有効でないとされた組織は淘汰される。



6.国益論、市民益論のない官僚組織の問題

しかし、官僚組織、特殊法人、公益法人は違う。
市場経済の外で、官の共同体が肥大する。

この国では共同体のいちばんだったものが、中央省庁を頂点にし、官僚支配のピラミッド構造をつくった行政組織だったといえます。

共同体組織の自己拡張の頂点と崩壊

生活共同体ですから、省庁の権限や利益の自己拡張をすることが、<国益>に反しても、内部規範では正義になる。

ケインズ政策で公共投資が増えた90年代、77の特殊法人、26000の公益法人、そして第3セクター組織は、中央省庁の、膨大な下部機構を構成するピラミッド構造が、90年代に完成した。

組織もシステムも、複雑で大規模になると、一方ではそれが完成と言われるが、実はその時点が、崩壊の始まりになる。
それが、今、2001年の公的組織でしょう。

歪んだ国家論が、省庁至上主義を生んだ原因

本来は、省庁は、省庁のより上の、<国家の利益>のために奉仕するべき機能的な機関であるべきでしょう。

省庁は、省庁の存在のより上位の「国益=市民の利益」という目的を持たないと、実体は内部規範の、自己正当化と自己拡張で運営されるようになって、いずれ市民の害になる。

国家論のタブーがもたらしたこと

ところが、明治維新をのぞき、戦前も戦後も「国家論」はタブーだった。国家論があったのは、明治維新だけだった。その時、国家目標とされたのが、「富国強兵」であり、方法は「和魂洋才」だった。

国家論では、天皇のポジションと、軍隊に触れざるを得ない。
戦前も戦後も天皇は、無条件の前提であり、論じることができなかった。現在の自衛隊には、何に対して、何を防衛するのかの定義を与えていない。

言い換えれば、軍備と軍事行動の目的が、合意をもって定義されないままに、米国の兵器産業のお得意様になり、毎年5兆円を使い、世界で2番目の高度装備をもつ。

一体何に対して、何を防衛するのかと問えば、左派と右派で、神学論争が起こり、双方が、わけがわからなくなり蓋(ふた)をしてきた。

その結果、アイマイになった国益と市民益

こうして、国家論の根本の議論がタブーになると、国家の利益とはなにかが明らかにならないから、「国益論=市民の集合利益」も、明らかにされない。

個々のダム、高速道路、文化施設が市民のためになるかどうか、こうした議論がなく、税の無駄だとか有益だという論に飛躍する。無駄であるか有益であるかは、「受益者の定義」がない限り、これもまた、神学論争です。

公共投資や、行政の受益者であるべきは、「税を払う市民」であるという定義が必要です。この定義がベースにあれば、全部の公共事業が悪玉やまたは善玉という、お得意の判断停止の議論にはならない。

公共投資、公共事業の受益者が、お役所と業者なのか、あるいは市民なのかということで、有益・無益を判定できる。

こうした議論の根幹が設定されず、感情論になるから、この国では、いつも、議論は、オールorナッシングの子供じみたものに終わる。

冷静になる時期が来ると、なんであったのかがまるでわからない熱病を、構造改革論議で、今も繰り返している。
ここでのキーは、「市民」の定義になる。
(実は市民の定義は急進的なのです)

官僚組織が、目的とすべき「国益=市民の集合利益」とは一体どんなものか?国家と市民の関係は、どういったものか?

(第4部へ続く)

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copyright : Systems Research Ltd. Chief Consultant 吉田繁治