随想:事業家の無私
This is my site Written by admin on 2004年9月22日 – 08:00

こんにちは、吉田繁治です。本マガジンが、一ヶ月も、お休みになっ
てしまい、申し訳なく存じています。時間が飛ぶように過ぎます。

時間資源は、生きている期間中は、平等に与えられる。使い方に天地
の差がある。私のタイム・マネジメントに、まずさがあることの明証
です。

テーマは「事業家の無私」です。事業家くらい私益に凝り固まった人
はいないように思えます。しかしその私益は、顧客を通じてしか得ら
れない。顧客は、義務で買うのではない。人情はあるかも知れません。
営業は人情。「あんたが言ってくるのだから、仕方がない。」(笑)

人情っていいと思いませんか? 人の情け。インフォメーションを情
けの知らせと解し、最初に情報と言ったのは確か森鴎外だった。孔子
の「仁」や、本居宣長の「もののあはれ」にも通じる。韓国では、意
味の位相は相当に違っても「恨(はん)」でしょうか。英語ではヒュ
ーマニズムかな。フランス語ではユマニスム。宗教の対立を解消する
ための唯一の知恵です。

今回は人情論ではない。何だか分からない「無私」について。
もともと、形式的な主語を消した言語を使ってきた日本人には、
この無私は分かりやすいはずです。

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      <Vol.197:随想:事業家の無私>

【目次】

 1.ヒント
 2.分かること
 3.言葉
 4.絵
 5.交わる
 6.照応
 7.異端
 8.奇妙なチア
 9.私は、正直に言える。もう一度選び直すことができたとして
  も、今と同じ生き方を選ぶ。

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■1.ヒント

先日、仕事には、表面上は関係がないと思われる『新・考えるヒント』
(池田晶子:講談社)を読んで時間を忘れた。初冬に出す予定の新
刊書『ザ・プリンシプル(The Principle)』を書いている最中でした。

池田晶子が下敷きにした『考えるヒント』は、小林秀雄(1902-83)が、
1956年から62年まで雑誌『文藝春秋』に連載した。72ヶ月の連載と
いう時間の長さに驚く。今ではこうした期間は、許されない。『感想』
と合わせ45編の随想として全集第12巻になっています。

英文学者兼批評家の福田恆存が、解説を書いている。

<連載エッセイを通じて著者(小林秀雄)が繰り返し強調しているこ
とは、考えるという手続きのうちには、手続きしかないということだ
からである。ヒントと言えばすぐ答えを予想し、答えを求めてヒント
を当てにする現代の風潮では、著者の主張は、容易に受け入れられる
とは思えぬ。>

小林秀雄も福田恆存も、大部分の人にとっては歴史上の人物になった
でしょうか・・・
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/stroll/culture/kobayasi.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/FUKUDA/

歴史と言えば、彼はこう言っています。

<刻々と考え、決心するわれわれの意識は、後になって、やむを得ず
歴史の衣をまとうだろうが、今はただ前に向いた意志だけであろう。
(『歴史』小林秀雄)>

こうした文章は、素直に理解できるものに思えるのです。(笑)

決めるのは意志です。その意志は、判断の歴史的な傾向は持っていて
も、傾向を乗り越える前を向いた意識。

後で振り返れば、その決定が人の歴史として解釈される。なんら不思
議なことでない。

■2.分かること

小林秀雄の書くものは「分かりにくい」と言われる。
その分かりにくさは、絵を見たときに似ている。

ゴッホがピストル自殺をする数日前に描いた「鴉(からす)のいる麦
畑」を見て何が分かる? 
http://www.vangoghgallery.com/painting/over_09.htm

言葉にならない感情が巻き起る。分かるとは、わきあがる感情のこと
ではないか。音楽も詩も似ている。散文も変わらない。小林はそうし
た文章を意識して書いた。それが方法だった。

モーツァルトのソナタを聴いて、分かるとは言えない。情動が残る。

考えることには、考える手続きしかないと言われれば、だれでも戸惑
う。多くの人が本を読んだり、あるいは人に訊ねるとき、「答え」を
求めているのは否定できない。

物事には「正解」があって、教育は答えを教えることであると考える
人も多い。確かに、テストでは○×がついて帰って来た。

しかしそれは「鴉のいる麦畑」を1890年にゴッホが描いたという
史実を問いにしているに過ぎない。史実には事実か嘘かしかない。史
実を歴史と誤解すれば、学校教育になる。科学とも言う。しかしそれ
は果たして知ることか?

水は、水素原子2つと酸素原子1つが電子で結びついたものだと知っ
て、われわれは水を知ったことになるのか。

ソリューションというビジネス用語もある。会社の問題は、ソフトウ
エアの導入で解決できるということを言外に言っている。解答だらけ
です。問題の数と等しい解答がある。問題を作れば解答もできる。あ
らかじめ解答があるから、問題を作ることができる。

3時間で分かる事業や成功の秘密とか、その種の本も繰り返し大量に
出る。なるほどそれぞれに、気が付かなかった若干のヒントはある。
それだけのことだ。

池田晶子は『新・考えるヒント』の冒頭の文章を、あるオピニオン雑
誌に連載する予定で書いたが、「難しい」ということで流れてしまっ
たという。

<理知の働きが己を超えていることを知るのは、それ自体が理知の働
きによっている。「知る」ということそれ自体の逆説は、プラトン描
くソクラテスの言葉遣いに端的に現れているけれども、表された言葉
によって知られる逆説は、実は未だ逆説ではない。逆説を生きた人物、
それによって死んだ人物が現実に存在したという事実にこそ、われ
われは驚くべきなのだ。(池田晶子)>

こうした文章を編集者から「分からない」と言われた。掲載が流れる
のが当然に思えます。「・・・なのだ。」と言われても、とても困る。(笑)

しかし『新・考えるヒント』は3ヶ月で4刷りを重ねた。
池田晶子の、わからない文章を読む人が増えたのか?

書かれた言葉やそれが呼び起こす概念は、自己を超えて伝わる。これ
を理知の働きと呼んでいる。理知というから分かりにくい。頭の働き
と言い換えればいい。言葉は、言語を共有する人々に共通のものだ。
だから辞書が成立する。言葉は共有される。

言葉によって意味されたものが、人(己)を超えて人に伝わるとは不
思議なことだ、その不思議さとソクラテスは格闘したということかも
知れない。

自分が発した言葉を、どうやって他人は理解するのか?

普通は、こうした言葉の作用を、不思議だとは思わない。しかし言葉
を使って、「論理で正しく内省しようすると、不思議になる」。

その不思議さをどうにも解明できないので、ソクラテスは「自分は無
知だ」と言った。周囲は「知っている人が言う逆説、あるいは単に謎
かけ」と取った。本人にとっては無知が当然で、知っているという人
が逆に変に思えた。彼は異端だった。

小林秀雄はソクラテスがいたから、周囲の知識人と言われる修辞家の
ソフィストの群に対し、批評という仕事ができたように思える。ソク
ラテスなど、読む人がいますか?

■3.言葉

言葉は奇妙なもの。モノと違い、同時共有ができる。3000年前に
書かれたものでも、私の現在に共有される。

ある人が「窓」と書く。それを読んで人は何を思うか。書いた人が「
窓」で表現したものと、読んだ人が思い浮かべた「窓」は、同じもの
であるはずもない。これはだれでも分かっている。

ここに、個と個の間の深淵(しんえん)、あるいは超えられぬ闇があ
ることも、察知しているはずだ。

私のイメージした「窓」と、読んだ人の「窓」には違いがあるはずな
のに、何かが伝わるように思えるのはなぜか?

もしや、この個や個人という概念も、近代が作った幻なものかも知れ
ない。言葉の不思議さを思うと、そこまで至ることがある。

ヘーゲルは、観念として共有される言葉を、絶対精神と言ったのかも
知れない。どの時代の人が言っても、水は水だ。

科学的に言えば、すなわち物質として見れば、水はすべて微妙に違う。
しかし水という言葉で人々が想起するものには、普遍的な共通性が
ある。ここが観念の不思議さだ。

物質は2つとして同じものはない。しかし水という概念は同じである。
そうすると変転きわまりない物質に較べて、観念のほうが絶対的な
ものに思える。

だから絶対精神だ。人はこれを神とも取った。絶対とは変わらないこ
とです。物質は変わる。(こうした哲学の用語は難しすぎますね。書
いていて訳がわからなくなる(笑))

言葉が指すものは共有できなくても「窓」という言葉の観念は共有で
きる。この部屋にある実際の窓を、別の人と共有はできない。ものは
そうした性質を持つ。

しかし言葉だけは、はるか遠くにいて共有できる。言葉は物を超える。
言葉を発した人も超える。これを超越とも言った。超越は超えること
でしょうね。

親しい人に「今、私は、窓から遠くの空を見ている。」と送れば、想
いのいくばくかが、伝わるかもしれない。いや意味は伝わらないのか
も知れない。

確かなことは、われわれは、書かれた文字の「窓」を見て、遠くの空
を見たときのことを思い起こすことだ。分かるということは、それだ
けで十分なのかもしれない。

人は、他人が書いた文を読んで、おそらく自分を読んでいる。

自分の、他人とは共有できるはずもない個の体験を、言葉の作用で呼
び起こす。体験は、言葉にはならない。その人の、一回限りのものだ。
われわれはそれらを記憶し、だれかの言葉によって思い起こす。

小林秀雄の文章が分かりにくいとすれば、私の生活体験での注意深さ
が足りないためだと思う。

分かるとは、おそらく、言葉と自分の内観との照応のことだから。

■4.絵

「鴉(からす)のいる麦畑」にどんな意味があるか? 言葉になるも
のがあるなら、ゴッホは言葉で書き綴ったに違いない。ゴッホの手紙
を読めば、言葉についても彼は鋭敏だったことが分かる。

ゴッホは、言葉を使わず絵を描いた。最後の画材とした麦畑もカラス
もありふれている。しかし絵を見れば、尋常ならざるものがある。カ
ラスが数日後の自殺を象徴するという解釈は余計なものに過ぎない。
ゴッホの絵もゴッホの肉体を超えて情感を伝える。

http://www.vangoghgallery.com/painting/over_09.htm

われわれは、ゴッホの生活を史実として知ることと、彼が描いた絵を
理解することを混同してしまう。絵に、そうした意味での理解はいら
ない、見て感じればいい。言葉や史実に換えたから、分かるという性
質のものではない。

小林秀雄にも、切迫し尋常ならざるものがある。挑戦的な言葉の緊張
にそれを感じる。この感じを体験した人は、読むことに喜びを感じる
はずだ。それは、生きることの喜びかもしれない。

■5.交わる

<考えるとは、物に対する知的な働きではなく、物と親身に交わるこ
とだ(『考えるということ』小林秀雄)>

この文も理解を拒絶している。物と親身に交わるとはどういうことか? 

普通は、知的な働きを、考えると言う。しかし言葉による説明的な理
解がもともとできないものもある。「鴉のいる麦畑」がそうだろう。
絵を見ることも考えることだ。

しかし、絵を知的に考えることはできない。だがゴッホの、絵の具の
重なった痕跡と色から感じるものはある。これは確かだ。感じるもの
に較べれば、史実を集め、知的に分かることはずいぶん下位にあるよ
うに思える。

感じることは、物と交わることかも知れない。
読むことは、言葉と交わることかも知れない。

大理石を前にした彫刻家は、物と交わることが手でわかっているはず
だ。木を前にした名工も同じかもしれない。商品を前にした顧客も同
じだろう。アルファ・ロメオを理解はできない。それは交わって、つ
まり運転して感じられる。牛乳石鹸でも同じだろう。

■6.照応

池田晶子に触発され、小林の『考えるヒント』を久しぶり読み、ある
いは字面を眺めて、次のような文章に遭遇した。過去に読んだことは
あるはずだが、すっかり忘れている。人との邂逅(かいこう)という
感覚です。

読むための期が熟していなかったのか。
当時までの体験に、おそらく不足があった。

サム・ウォルトンについて300ページを書き終えたとき、小林秀雄
の以下の言葉に驚いた。やっと気が付いたかと、感慨が深かった。

<実行家として成功する人は、自己を押し通す人、強く自己を主張す
る人と見られがちだが、実は、反対に、彼には一種の無私がある。空
想は孤独でもできるが、実行は社会的なものである。有能な実行家は、
いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新
しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨て去る用意のあ
る人だ。物の動きに準じて自己を新たにするとは一種の無私の精神で
ある。(『無私の精神』)>

今はこの言葉を、実にすんなりと理解できるような気がする。サム・
ウォルトンを、言葉を通じ体験したからかも知れない。彼の内観を、
言葉を手がかりに探した。彼が言う情熱を、自分の体験から解釈した。
分からないところが、どっさり残っている。

評論家小林と米国の事業家サム・ウォルトンには、関係は何もない。
しかし方法は、小林が他の成功した事業家を見て解釈した通りだった。

ビジョンは空想であっても、事業と経営は社会での実行でなければな
らない。

そのため、自己主張より、言い換えれば自己利益の追求より、顧客の
考えや動きを尊重し、顧客のために貢献するという「無私」に至るこ
とのできる人が実行家として成功する。

しかしこの、仏教的な概念に思える「無私」とは何か?

白状すれば、無私に至ることが事業で成功するとは、まるで考えてい
なかった。しかし今は、このことに、とても大切なヒントがあるよう
に思える。

人のためにどんな「貢献できるか?」、「どんな貢献の違いを出すか
?」これを考え、実行の方法を作ることが、事業構想に違いない。

実行家であったサム・ウォルトンは顧客の新しい動きが見えれば、あ
るいは分からなかったことがいったん分かれば、または競争の要件が
変われば、過去の原則を直ちに変え、新しい原則を立てて仕事を実行
した。周囲の人にも、いままでの原則を変えることを要求した。

自己主張なら、そうはならない。自分は正しい。相手が間違っている
と言うはずだ。どこかの国で、ピーク売上4兆円の事業を作った人は
常にそう言っていた。事業の最後では、客が物事を分かっていない。
間違っていると言った。そして自分の店では何も買うものはないとも
言った。買う人が減るのは当然に思えた。

売上げはすべてを解決するとも言った。一方サム・ウォルトンは、最
良の1店舗を作ることと言った。事業規模は目標ではなかった。それ
は結果だった。最期に、規模をここまで拡大したのは、正しいことだ
ったかと述懐している。

他人の動きを観察し、新しい動きを看破すれば、直ちに過去の解釈や
自分が作った原則を変える。これは自己主張ではない。

サム・ウォルトンは自分のことを常に「世間とは逆の流れに向かって
歩いて来た異端」だと言う。これはまともには受け取られてはいない。
自己韜晦(とうかい)だと人は言う。韜晦とは、言葉による目くら
ましです。

しかし彼を調べ彼の言葉から想像をめぐらし、書いているうちに私に
はそう思えなくなった。彼はとても異端と思えるようになった。まと
もに考えると、なぜか異端になる。そうしたことが、彼を通じてよく
分かる感じがした。

生涯、日々、これが原則だ、この方法で行えばうまく行くと言い続け、
先頭に立ち実行した。繰り返すことで、これが彼の個性になった。
これも異端、普通ではない。

原則は言葉として表現された。周囲の人に理解され共感を呼んだ。原
則にさかのぼって過去の行動を照らし、これからの判断と行動を決め
ることを行ったため、人々がともに実行できる「方法」に至ったこと
になる。

方法は仕事の中で「原則」を見つけることだった。黄色いノートに、
他人には判読できない独特の文字でメモをした。発見した原則を、情
熱を込め皆に話す。

「こうやればきっとうまく行く。さぁ、今からこの方法で実行しよう」

コミュニケーションが、彼のマネジメントで大切にしたことだった。
コミュニケーションは双方向でなければならない。現場にでかけ自分
の考え、仕事の原則を個別に一人一人に伝え、実行してもらう。

実行はサンダウン・ルール(日没原則)で行う。夕日が沈む時間まで
に、終わらせる。発生した問題は放置せず、可能なかぎりのことを行
い、明日に持ち越さない。

実行したあと間違いがわかれば、原則にさかのぼって変える。
原則にさかのぼることによって、同じ間違いを防ぐ。
もっといい方法と手順を決め、原則にして再び実行する。

周囲はサム・ウォルトンが大切にしたことに巻き込まれ、実行した。
店舗を増やすとともに、パートナーあるいはアソシエイト(仲間)と
呼ばれる実行する人の輪が広がっていった。

人々は事業や仕事で成功することを願う。
しかし、貢献することを願うことができるか。

貢献を理念にし、貢献を方法にして実行できるか。
どうやら焦点はここである。
 
小林が言った「無私」は、自己主張あるいは自己利益より、顧客とい
う他者を尊重し、顧客のための利益を優先するということだった。

しかし、皮肉なソフィストなら、ここに「逆説」を見つけることもで
きる。顧客のための利益を図ると言って、実は自己利益を図ったので
はないか? 多くはこのソフィストのように考える。その証拠に、ウ
ォルマートは最も儲けた企業だ。

では、顧客を巧みに誘導し支配したのか? しかし顧客「管理」など
できるはずもない。多くの人は、顧客として檻に囲って管理されるな
らごめん蒙るだろう。

にもかかわらず、事業は、顧客によってしか実現できない。そのため
彼は、事業のビジョンを顧客満足という一言にまとめた。これは顧客
への貢献だった。他社より一層、顧客に貢献することだった。

相手への貢献を考えることが、自分の利益にもつながる。これもソク
ラテスが言う逆説に思える。

もちろん以上のことは、サム・ウォルトンの考えと言葉を、解釈した
結果だ。彼の内観は、だれにも分からない。彼の選択、行動、言葉、
つまり現れたものを、自分の体験に照らし解釈できるだけだ。

<あれもこれも心に留めておきたい、ある場合も逆の場合もすべての
条件を考えたい。だが、実行するには、たった一つのことを選んでと
りあげなければならない。そういう悩みで精神が緊張していないよう
な実行家には興味が持てない。(『無私の精神』)>

決定や選択に迫られるとき、だれもが、これと同じことを感じるはず
です。

考えたことを実行するとは限らない。浅慮で実行することも多い。想
念や空想は、いかようにも作ることができる。言葉では嘘をつける。
他人に見える形で残るのは、実行された結果の具体物だけである。

ゴッホが「鴉のいる麦畑」を描いていたとき、何を考えていたか。だ
れにも分からない。そして、彼自身が、「***のつもりで描いた」
と言ったとしても、何ら、絵の意味を伝えたことにはならない。

しかし、われわれは遺った絵を見て、想いに沈む。その絵が実物であ
るかどうかすら、関係はない。写真で十分である。変調をきたした気
分の時は、躯が震えることすらある。号泣するときもある。

人は、自然を見て笑ったり泣いたりはしない。人間が描いた絵や書い
た文字、そして作った音楽は人工の具体物だ。この具体物は、言葉で
は分からなくても、意味は伝える。人の物語りは悲劇か喜劇だ。

■7.異端

「仕事」とはなんだろう。目的は顧客満足を図ることと、どこの会社
も言うようになった。今更、改めて言うに値しない。しかし多くの企
業者は、理念は掲げるが、理念の中身を信じてはいない。

したがって実行しない。方法も作らない。問題は実行。経営は実行さ
れねばならない。中身が満たされなければならない。顧客にとって、
他とは違う価値ある内容を作るのが、経営であり仕事だ。

理念を信じれば、違った世界が見える。これは私の体験です。これを
どう伝えたらいいのか。未来の方向が見えるという感じでしょうか。
いや理念という言葉が、むこうからやってきて導く。なんだか宗教め
いた表現ですが・・・そして慣れればアイデンティティになる。

サム・ウォルトンが、満足保証を最初に掲げたのは1962年、ディ
スカウントストアの1店舗目の「ウォルマート・ディスカウント・シ
ティ」を、アーカンソー州ロジャースに開いたときだった。

その後、顧客満足はウォルマートの理念の、頂点にあり続けている。
彼が言った顧客満足の中身はどんなものか?

多くの人は、売る商品の品質保証と受け取った。品質保証なら普通の
ことだ。そうではなかった。事業定義、あるいは人を動かすパワーを
もつビジョンそのものとしての、深さをもつものだった。いや正確に
は、サム・ウォルトンという実行家の個性が、その意味内容を個性的
に作った。

店舗は「商品」を仕入れ、展示し売る。しかし本当に行うべき仕事は
「満足という商品」を売ることだ。商品ではなく商品を使う満足を売
る。

したがって顧客の期待を満たさないことがあれば、売った商品の品質
に問題がなくても、無条件で返品に応じるべきだ。満足を商品として
売るという論理からの必然である。

彼はこうした選択をした。事業が、返品の山で潰れるかもしれない。
恐怖は当然のことです。

1ドルの売り上げのうち、残る利益は5セントに過ぎない。20個に
1個以上の返品があれば利益が出ない。2個返品があれば3ヶ月後に
は倒産する。

やってみて、結果を見るまでは不安に震える。実際にやる前は、論理
と信念しかない。知識ではない。知識が得られるのはやった後のこと
だ。事業を興した人は、これを知っている。

われわれは知識によって、信じるという行動への力を忘れているのか
も知れない。

顧客満足を仕事とするなら、顧客に満足をあたえない商品を売っても
仕事をしたことにならない。

顧客満足を掲げるなら、返品の受け入れは、付帯サービスではない。
返品を受け入れることが商品だ。ウォルマートは満足の販売業だから。
高い店舗経費は、商品のコストとして顧客が負担する。とすれば満
足を売るには、店舗経費を他より抑えなければならない。

これは論理だ。その論理を、信念として実行する。ここに飛躍がある。
そこを跳ぶ人と、その前に蹲(うずくまる)る人がいる。跳ぶ人は。
多くが異端になる。知行合一は稀有(けう)なことです。

理念は呪文ではない。呪文ならだれでも唱える。言葉では嘘が言える。
実行が伴わない教義は、知識に過ぎない。打ち立てた理念、哲学、
ビジョンまたは原則の中身を作って実行するのが、私と幹部と社員の
義務である。

掲げた理念が、正直に実行につながる会社は稀だ。ウォルマートは原
則を見つけビジョンを実現する場だった。

理念や原則は、経営の言葉としては基本的なことばかりだった。しか
し内容を作るのは容易ではなかった。理念を実行するには、過去の経
営の常識を壊すことが必要だった。

こうした、当たりまえのことの実行に、普通に、異端がある。
物事に対し真摯であるなら、皆、異端になるはずだ。

それくらいわれわれは、物事を斜めに見てしまっている。

あの人は違うと思ってしまう。裏返って、自己を肯定する。
これが自己主張の正体だ。言い訳にも似ている自己正当化。
無私とは対極にある。

■8.奇妙なチア

「さぁ、Wと言って!」、チア・リーダーが大きな声で叫ぶ。
「W!」と応える全員の声が会場を満たした。
彼女が「A!」と言うと、皆は「A!」と歓呼する。
「L!」、「L!」 

次は「スクィーグリー!」と命じる。

何を思ったか、皆が一勢にくねくねと腰を揺らす。奇妙で滑稽な動き
を見ればだれでも吹き出す。

スクィーグリーは今の店舗サインである「WAL★MART」の
★を意味するものだった。

歓声は「M!」「M!」、「A!」「A!」、「R!」「R!」、
「T!」「T!」と続く。

最後に、チア・リーダーは「ナンバーワンはだれ?」と問う。
出席者の全員が待ちかねていたように叫ぶ。

「お客さまがナンバーワン!」

★はサム・ウォルトンが亡くなったあと、彼の存在の象徴と意味づけ
られていた。社員と顧客は、今日も店の玄関の★になったサムを見る。

ウォルマートには風変わりで洗練されない、しかし社員を心でつなぐ
価値観への連帯と、文化への共感を確認し、励ますこの「チア」のよ
うな儀式が数多くある。分かり切っていて気恥ずかしく、当たり前過
ぎると思えるようなことが多い。

現CEO、リー・スコットも、はじめてウォルマートの会議に出席し
た1979年8月には、チアに戸惑い閉口したと言う。彼も最初は、
会社に来るのは、仕事をして報酬をもらうためと考えていた。チアな
ど無意味だ。

2年目には、彼はチア・リーダーの歓呼に加わった。
3年目には、最前列で叫んでいた。

■9.私は、正直に言える。もう一度選び直すことができたとしても、
   今と同じ生き方を選ぶ。

「今、すべてのことが私にとって終わりに近づきつつある。私は重い
病気にかかっている。」 

サム・ウォルトンの最期の10年は、骨髄性白血病との戦いでもあっ
た。夜遅く、眠れないときは、「今まで行ってきたことを、自然に思
い出した」と言う。病の前と何ら変わず、早朝に出勤し仕事を続けた。

1992年、本社の講堂で、長年一緒に仕事をした数百名のパートナ
ーを前に、表彰式の壇上に登る。かつては頑健だった体は自由を失い
車椅子にのっていた。痩せていた。

全員が、今日がサムと過ごすことができる最後の機会と感じていた。
大統領は言った。「アメリカに生まれたサム・ウォルトンは、企業家
精神を具現化し、アメリカン・ドリームを体現した。」
まるで弔辞だった。余計な言葉だった。
  
大講堂は、誇りに満たされると同時に、思い出と涙に満たされたと子
息のロブ・ウォルトンは言う。

講堂は、彼が壇上から毎週、社員を励ましていた場所だった。

社員は、たまらず壇上のサム・ウォルトンに「W! A! L!  
M! A! R! T! 一番はだれ!」のチアを贈った。

数日後、様態が悪化し入院する。3週間後、息をひきとった。

1992年4月5日朝、創業以来47年、あとで作った目標だった世
界ナンバーワンの規模になった直後だった。
               
自らに課した目標が、階段を上るたびに、蒼穹(そうきゅう)に至る
くらい高くなってしまっために遭遇した困難と戦い、選択し、課題を
解決してきた。

目標が、私のように低ければ、達成の困難はない。ある目標を達成し
たとき、次々に超えるべきハードルを高くする人がいた。あるいは目
標を発明し続けた。

彼はいつもの癖でガンも徹底して調べ、事業に対するかのように戦っ
た。病は意志を超えた。サミュエル・ムーア・ウォルトンに宿命の受
容を強いた。
               
彼は言った。「どこにでもいるような人が集まって、だれにもできな
いようなことを成し遂げた。」

われわれには、彼の体験を集約した言葉と、巨大な、競争者には恐怖
を与える事業が遺った。

そして最後に書く。「私は、正直に言える。もう一度選び直すことが
できたとしても、今と同じ生き方を選ぶ。」

環境は与えられる。人は環境を選べない。しかし人は自分の意志と決
定で態度、生き方、方法を選ぶことができる。

すばらしい仕事があるのではない。
すばらしく仕事をする方法がある。
サム・ウォルトンは実行で示した。

だれかが言ったように、歴史は繰り返さない。しかし登場人物を変え、
同じ成功原則で繰り返すことはあるかも知れない。成功することが
が正しいことかどうか、それは分からない。

彼は言う。自分が行ってきたことは、望んだ以上に成功はしただろう
が、果たして「正しい」ことだったか、最期にそうした思考に至る人
がいる。

成功と正しさを結びつける思考には、普通は、至らない。
普通はもっと手前で、自分を許す。無私に至るのは異端。

           ★

【後記】
『ザ・プリンシプル』を書き上げた後でしたので、本稿のような内容
になりました。ウォルマートには今、外資の進出として反発を感じて
いる人が多いかもしれません。ダイエーの買収にも、エントリーして
います。

私のスタンスは事業の結果を見て、論じることではない。
事業と仕事の原因を探し、表現し、方法にすることです。

『利益経営の技術と精神』は、次第にいろんな企業に浸透しています。
いろんな人から、難しいと言われます。

以下のメールを許可を取らず掲載することをおゆるし下さい。

<書店の経営に携わっている者です。『利益経営の技術と精神』たい
へん興味深く読みました。最近読んだ本の中では、ずば抜けて読み応
えがありました・・・>

http://www.amazon.co.jp

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読者の方からの意見や感想を、書く内容に反映させることを目的とす
るアンケートです。いただく感想は、とても参考になります。

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コピーしてメールにはりつけ、記入の上、気軽に送信してください。

↓著者へのメールのあて先
yoshida@cool-knowledge.com

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▼本無料版と姉妹編である有料版の、最近のものの目次です。

<株で利益を上げる「不滅の真理」はあるのか?(1)(2)>

【目次(1)】
 1.投資と投機
 2.個人プレーヤーの増加はボラティリティ(騰落幅)を拡大さ
   せる
 3.株式市場の総体は?
 4.上げたのはヘッジファンドの買いだった
 5.重要な注:米国の株バブル
 6.価格の形成の構造:1000株のうち3株が1日での取引
 7.まずはケインズの美人投票論の検討から
 8.多数派の動きを予想する少数者でなければならない
 9.株の売買利益の性質
 10.多数者の将来の決定を予想する少数者であることの難しさ
 11.投資家ケインズが指摘した株価の根拠のなさ

【目次(2)】

(ファンダメンタル派とテクニカル派の基本方法への導入)

 1.長嶋ジャパンの金メダルは?
 2.相場の本質
 3.インデックス・ファンドに、ファンド・マネジャーは負けて
   いたという事実
 4.まずファンダメンタルズから
 5.(1)PER(Price Earning Ratio:株価収益率:株価÷ 
      1株あたり予想純益)
 6.(2)PBR(Price Book Value Ratio:株価純資産倍率:
      株価÷1株当たり純資産)
 7.IBMの株価を事例にしたPERの水準
 8.テクニカル分析派の信念

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